鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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注いるように感じられた背景には,ダダを未来派とともに拒否しようとしたのではなく,逆に,この1月にマリネッティらの活動に参加した結果,未来派の側に味方した立場をとりはじめたからこそだったかもしれないのだ。どちらにしろ,戦後の回想に現われた,例の「地方遊説のばか騒ぎ」という評価には,「ムッソリーニのファシズムに通うものがあった」(「二科会における新興美術の動きような判断が伴われていることが多く,つまり,戦前には発想しにくい思想がそこに含まれていたことになり,ということはやはり,前衛を一括して拒否する姿勢というものは,戦後になってはじめて明確となってきたものと考えてよいように思われる。しかしながら,帰国直後の東郷にしても,その作品,言動ともに,本場の前衛をもろに体験してきた者とは到底思えない様子をしている。この辺りのことには,様々な事情が絡んでおり,また別の機会に述べなければならないが,次のような感想には,前衛というものに対するある種の思いが込められていることも否めない。「僕は座り心地の悪い理論の椅子を古道具屋に賣りはらってしまった。僕は兜をかぶることが嫌ひだ。(中略)僕は自分を哲學の鎧でカムフラアジするよりも,一人のよき職人たらうと心がけてゐる。」(1931年『東郷青児画集』第一書房;p.l) ここでは,戦後の回想のように個々の前衛運動をあからさまに拒否するような態度までは見えないけれど,理論がまず先にたっていたダダの教訓を生かした判断を下しているのだろうと考えることもできるし,前衛に彩られた前半期の滞欧体験の後の,生活苦の中から引きだされた思想だったとも考えられる。どちらにしても,東郷は滞欧中に前衛的な思想をすべて捨て去ってしまったのだろうか。もちろん戦後の彼のあり方は,回想に現われたそのままだったと考えてさしつかえないだろうが,戦前の東郷の行動もしくは作品は,必ずしもそうとは言えない一面があったと私は考えている。このことを見てゆくことが,次の私のテーマであり,それがひいては,日本のシュルレアリスムを考える時,重要な意味を担うことになると思われる。(1) 「初期滞欧時代の東郷青児とイタリア未来派蔵のマリネッティ宛東郷青児の未公刊書簡を中心にー」(1991年『美術史研究』29号,早稲田大学)他。東郷青児氏にきく(2)」)というイエール大学バイネキー図書館所-652-

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