鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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21, 22)。漢画の表現の域を出ない「総図」に対し,漢画風の肥痩ある線を独特に用い,本作品は無落款,当時蕃書調所絵図調出役の宮本元道(注15)が画師兼医師として随行していることから彼の作とされている。ところが不可解なことに,彼の帰国が文久二年の三月であるにもかかわらず,翌三年,軍艦朝陽丸が当地より帰帆した際の航路が図中にある。この航路を辿ったのは,島に残留し開拓に従事していたものの,政策の変更から引き揚げを余儀なくされた役人達である。文久二年五〜七月の年記,落款「久之」を有する島の景観図「小笠原島群島図」(東京都立中央図書館,以下「群島図」と略)一巻が残されているが,この内の一人によって描かれたと思われる。現地で制作されたとおぼしき漢画を骨子とする淡彩画であるが,ここに「真景図」と同構図による図が見いだされる。さらに謎を深めるのは「小笠原島総図」(国立公文書館蔵,以下「総図」と略)なる全二冊の景観図集である。文久二年夏建設の役所の図など,元道の描き得ない図が含まれている本作品の少なからぬ部分が「真景図」「群島図」に共通している。この「総図」には残留役人の一人,外国方定役の小花作之助(後作助と改名)との関連が認められる。「真景図」と対で所蔵されていた『小笠原島風土略記』の筆者でもある彼は,明治維新後も官吏として小笠原に渡り開拓に尽力したことで知られる。先年の調査の結果,彼の遺品中より小笠原等の風景を描いた図が発見されたが(注16),その諒「邦字」落款を有するこの作品は,報告によると「総図」に共通する内容を含んでいる。「真景図J作者の特定についてこのように錯綜を極める中,これを元道作とする根拠もまた存在する。彼以外体験し得ない文久二年帰航時の様子が描かれていること,その描写力が素人画家の域を超えていることである。その描写の巧みさは,「総図」の内構図を同じくする図との比較により歴然とする〔図細線と陰影を加えて土地の隆起を正確に捉えている。時にさながら立体模型のような図も現われる〔図23〕。ここで元道が明治以降地図作成に関わったことが思い起こされる。三平と改名した彼は明治十年文部省刊行の「日本全図」を制作した(注17)。技法の共通性は見られないが,両者を貫く特質は,地勢を見つめる確かな目である。「真景図」作者の特定は現段階において困難であるが,久之のように専門画家ではな-56 -

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