of the goverment of the United States.Francis L.Hawks, 1856)に想を得たものい役人が島の景を視覚に忠実に描き得たことには驚きを禁じ得ない。この事実は,合理的な空間を再現する技法が名所図会の刊行等により既に一般に広まっていたことを雄弁に物語っている。(2) 制作の目的「公余探勝図」が旅の途次の景観を淡々と描くのに対し,「真景図」は実に様々な性質の図を含んでいる。港や滝といった島の景観を描く図の他,巡見使の様子や航海の様子を生き生きと伝える極めて鑑賞性に富む図があり,その一方で,測贔図,島に居住する欧米系住民の地所の地図など実用性に直結する図も存在するといった具合である。一次写生と思われる「群島図」はもとより,「総図」にもこうした多様性は見られない。「真景図」及び前述の「風土記略」は幕末・明治に外交官僚として活躍した宮本小一の[日蔵である。彼は明治二年に小笠原島の再開拓を政府に建白しているが,その中で作助がかつて開拓に関わり風土記録類も所蔵していることに触れ(注18),それらを「別紙記録図面」二冊(注19)として提出している。資料の体裁からして「真景図」がこの中に含まれていた可能性は薄いが,小笠原島再開拓の建白に作助が関わっていたことの意味は大きい。この場合作助が何らかのつてを辿って小ーに働きかけたと考えるのが自然であろう。「真景図」は,小ーに島の様子を魅力的に伝え,腰を上げさせるために作助が献呈したものではないだろうか。そしてより完成度の高い作品を作るために元道に制作を依頼したとすれば納得がいくように思われる。となれば本作品の制作年が巡見の直後ではなく明治初年である可能性も生じてくる。(3) 『日本遠征記』の影響宮本氏の説得におそらく功を奏したであろう硬軟兼ね備えた本作品の構成は,嘉永六年(1853)米国使節ペリーが開国を求めて日本を訪れた際の公式記録『日本遠征記』(原題Narrativeof the Expedition……M. C. Perry, United States Navy By order のようである。『日本遠征記』には洗濯や掃除といった洋上における日常のコミカルな描写や,洋上にて他の船と遭遇したり,礼砲を受けた際の図が見られる。これは「真景図」において船中で時化にあい難儀したり〔図24〕,帰途米国の捕鯨船に遭遇〔図25〕父島港内に-57 -
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