も北イタリアの,それも旧ユーゴスラヴィアに近いアドリア海の北端海岸に面した港町アクイレイアにあって,この町を中心にした地中海沿岸の周辺諸都市の古美術や地誌,地形学を,多くはない先人達による文献史料をもとに,そして自らその先頭にたって指揮を取ってきた“水中”も含めた発掘調査によって,研究をすすめ論文を発表,現在は大学においても講義したりしています。これまでの多数に及ぶ発掘作業によって発見された遺跡や遺構,碑文などから,あるいは古代以来の自然現象はもちろん,何度となく繰り返されてきた戦争といった人為的な要因による,地盤沈下や水位の上昇などの故に水底に没していた遺物,例えば日常雑器などの生活用具から交易品までといった出土品を手がかりに各事柄の分析・解釈につとめ,年代づけ以外にも,時代の変化や発展までもたどろうと,その研究の重要な基盤となる古代の港湾機構や規模,交易ルート,交易品などの原産地,そして諸都市の当時の経済状態から文化レベルまでを読みとって大きな研究成果をあげてきたのです(著書『アクイレイアの中心をなす港湾機構』1990年刊)。ベルタッキ氏による最初の『アクイレイアとその港Aquileia and its port』と題する講演では,本人自らが発掘し,自らが中心となって長年にわたってそれらの整備・体系化に携わってきたイタリア随ーを誇る国立アクイレイア考古学博物館の収蔵品も例にあげて,話をすすめていきました。1980年刊のその著書『ヴェネツィアからアクイレイアまで』によって一部の専門研究者はこの港町の重要性を知ってはいても,一般の日本の方々にとっては観光地でもなく今日では交通の便もよくないためにわざわざ立ち寄ることもない馴染みのない土地だったわけですが,現にアクイレイアの遺跡のど真ん中に建つ家に住み,長年考古財保護監督官,あるいは発掘調査団の団長として,現場での豊かな体験に裏打ちされた,さらに考古学博物館の研究調査官として博学多識な考古学者であるベルタッキ氏が生き生きと語り描くアクイレイアは,聴講者の方々の興味を引かない筈はありませんでした。紀元前2世紀,厳密には先ずB.C.186年にガリア人によって1万2千人の町が建設されたアクイレイアですが,その3年後B.C.183年にはローマ人によって破壊され,さらに碑文からB.C.181年にローマ軍によってラテン人植民都市の沿岸要塞都市が建設されたことが判明したそうです。その後,やはり共和政時代ですがB.C.169年以降に人口も増加,東から西へと町も道路も発展し,もともとは外域の監視と河川の船の出入りのためだった港がつくられました。そして時代を経るとともに,このアクイレ-681-
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