鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
694/747

of Roman Histria and their economy』です。イストリア地方というのは,アクイレ古代のアクイレイア周辺の水路,とくに人工の運河の水力利用に関心をもたれ,交通の便の悪いなかを2度3度とこの地を訪れてベルタッキ氏とも親交のある早稲田大学文学部の小林雅夫教授は,「いろんな意味で,つまり古代ローマの地中海世界における交通の要所として,北欧から地中海へ,地中海からアルプス以北へ,という陸上・海上両ルートからみても理想的なその立地,そしてアドリア海の貿易港としてアンコーナと並ぶ発展ぶりをみせた経済史的な面からも,また蛮族や起こり得る東方からの侵攻に備えたパダーナ渓谷の防衛など軍事的要衝の地として,あるいはすぐ近くにある古代末期にキリスト教徒がのがれてきたグラードという島も含めてキリスト教史の上から,そして美術史的にいっても,観光ルートになってよく知られているポンペイが“マグナ・グラエキア”,つまりギリシアの影響が強く残っているのに比べて,純粋に古代ローマ帝国の傑作を残しているアクイレイアは,非常に重要な都市だったのですね。なにしろ博学で,実際に日夜考古財にかこまれて暮らしている彼女だから,話にも説得力がありますよ。特に古代経済史やキリスト教史,古代美術史の専門研究者にとっては大変興味深い話だったと思いますね。僕自身,今回見せていただいたスライドの中にも,これまで見知っていた筈なんだが……あらためて見直したような貴重なものもありましたよ」との感想を洩らして下さいました。ベルタッキ氏のもう一つの講演は『ローマ時代のイストリアの港とその経済Ports イアからさらに東へ向かった,イタリアと旧ユーゴスラヴィアの国境地域で,アドリア海の北東海岸に突き出ている半島部分です。今日ではトリエステ以外はイタリア領ではありませんが,かつて古代においては,つまり初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代にはその第10レギオン(XRegio:行政区)に組入れられ,“ヴェネティア・エ・イストリア”と呼ばれていたローマ帝国の版図の一部でした。歴史的にはローマ帝国の没落後,イストリアは787年にフランク王国に征服され,その後はオーストリア辺境侯にも支配されることになりますが,1208年から1451年の間はアクイレイアの大司教座領になったりもします。そして第一次世界大戦後は1946年の条約で,トリエステ付近を除いてユーゴスラヴィアに移譲されてしまいます。今日では新聞紙上でも紛争二ュースが絶えない旧ユーゴスラヴィアですが,このイストリア半島もスロヴェニアとクロアチアに2分されてしまいました。ベルタッキ氏によれば,イストリアに関しては,先のアクイレイア以上にまとまっ-683-

元のページ  ../index.html#694

このブックを見る