鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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た資料や出版物も見あたらないため,これまでも有効な研究はほとんど行われてこなかったようです。それでも今回のテーマである古代イタリアの地中海を舞台にした交易を語るについては,古代に栄えたイストリア半島の港町を省くことが出来なかったために,数少ない研究者の中から,1913年から69年の間に「古代ローマの港はイストリアの西海岸沿いに多かった」ことなど10ばかりの論文を発表しているデグラッシの記述に着目し,よりシステマティックになった発掘調査等も採用され始めていたこともあって,検証の結果,古代船(現在はアクイレイアの考古学博物館に収蔵)やローマ時代以前の遺物もみつかり,イストリアがアクイレイア建設以前のアドリア海の接岸地点であり,北ヨーロッパヘ向かう街道の基点であったとの結論も得られました。ローマ時代のイストリアの繁栄やそれを証明する港の多様性の中でも,目を引くのが塩の製造でした。重要な塩の交易については常に国家が管理していたようで,古代ローマ人も新しい植民都市の建設時にはその周囲に必ず塩田をつくってきたそうです。イタリアと旧ユーゴスラヴィアとのイストリア一帯の合同調査も幾度か行われ,古代の居住地や,交易品のひとつ“イストリアの石”を石切り場から海までブロックのまま滑らせるための鉛を埋め込んだ舗装された2本の道の存在なども確認され,その折りにはローマ時代の2軒の住宅も発見(1993年と96年)しています。その後も何度か行われた調査からも,港の背後に水道を備えた古代の建造物や碑文もみつかっています。さらに半島を南ヘカトロの岬に出ると,ここからは石のブロックでつくられた港もみつかっており,防波堤も残っていて,そこに養魚場までが発見されたという話も興味深く,古代の人々も,昔も今と同じ位にたくさん釣れたであろうイストリアの海からの漁獲量だけでは満足出来ず,養殖まで行っていたのかと驚かされます。他にもローマ時代のイストリア地方の中でもっとも大きな都市のひとつだったとベルタッキ氏が取り上げたのは,ポレチです。アウグストゥス時代に自治都市として生まれたのですが,ティベリウス帝のときに植民都市になったところで,きちんとした都市計画に沿って建設され,初期キリスト教時代には壮大な司教の建物が建てられ,町の北側には約400mにおよぶ堤防の存在さえ,明らかにされました。以上,こうしたイストリアの港が,内陸の活動によって産み出した石材,オリーブ油,ワイン,そして特に貴重だった塩,といった交易品を送り出していたこと,つまりイストリア半島との通商が,古代イタリアの,とりわけアクイレイアやミラノ,ポ-684-

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