鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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⑤ 早期仏教彫刻史における三国・統一新羅の日本への影響56回東京国立博物館資料館セミナー1995. 11. 30 期(lnfiuence form Korea to Japan in the Early History of Buddhist Sculptures during the Three Kingdoms and the Unified Silla Periods.) 招致研究者:金理那(KIM,Lena) 報告者:跡見学園女子大学教授新藤武弘間:平成7年11月26日〜平成7年12月2日慶州石窟庵仏像群の図像と様式の諸問題石窟庵は周知のように統一新羅時代の仏教遺跡の精髄であり,また世界的に名高い仏教美術の傑作である。石窟庵に関しては,窟内の諸像の名称やそれが表す意味についてさまざまな見解が発表されているが,いまだ定説をみていない。私も本尊像やその他の諸仏像について研究を重ねてきたが,いくつかの問題がまだ解決されずにおり,この発表では現在までに知られている事実を再確認し,また石窟庵の仏像としばしば比較される唐代や天平時代の日本の例を挙げて検討しながら幾つかの私見を述べ,研究者諸氏のご意見を賜りたいと願っている。『三国遺事』によると,石窟庵の造営は新羅の景徳王の時(751年)に当時の宰相金大成によって始められ,774年に金大成が没してのちは,国により造営か進められたといわれる。したがって,石窟庵の造営は新羅の国家と深い係わりがあり,その諸像は八世紀後半の約25年間(751■774年)に制作されたことになる。石窟を竪って仏像を安置することはインドや中国でも行われたが,石窟庵は石を加工して人工的に構築されており,このような例は他には見られない。石窟庵の構造は長方形の前室と弯蔭天井の円形主室と両者を連結する扉道からなっている。その平面図によると,二つの円が接するように計画され,主室中央の本腺の大きさも,天井と室内の高さと調和をなしている。また石窟内では,本尊や菩薩像,天部および羅漢像などが整然と配置され,一つの完全な仏国土・浄土を形成している。石窟庵のように,人工的に石材を加工した完全な建築的構造を持つ石窟を造営し,その中に優秀な彫刻群を配置して一つの浄土を形成した石窟の例は,インドや中国には見られないものである。弘益大学教授弘益大学教授金理那(林南寿訳)-690-

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