鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
704/747

ヽノ眼品」に登場する世尊と考えることができよう。「世間浄眼品」には,菩提樹下で悟りを得た釈迦は常に禅定して光を放ちながら幾多の説法の場所には触地印を結んだ分身の姿で現れると記されているのである。こうした降魔触地印の釈迦像が,元来の応身仏釈迦の意味から象徴的存在に発展し,真理の本体と同一視され,普遍的な仏像形式の一つとして八世紀の中国と新羅で流行したのであろう。インドの仏像との比較で興味深い点は,本尊の像高,肩張,膝張などが玄芙の「大唐西城記』に記されるブッダガヤの大覚寺の成道像と一致することである。また,インドの降魔触地印の仏像の両足のあいだに見える扇形の衣文か,石窟庵だけではなく,石窟庵よりやや早い時期の慶州南山七仏庵の三尊像や,その後の仏坐像に見られることも注目すべきである。ところで石窟庵の本尊像と様式的に比較できる中国の作例は,河北省正定県の広恵寺(ー名,花塔寺)の大理石仏坐像(727年)であろう。とくに胸部と腕の上にかかる衣摺の簡略な処理方法や両足の間に集まる衣文線は石窟庵本檸像と同じ原型によるものと思われる。こうした降魔触地印の仏像がインドや中国,韓国で流行したのに対し,日本には見られないのは注意すべきである。文殊菩薩/ 普賢菩薩-693-

元のページ  ../index.html#704

このブックを見る