四天王像増長天前室と主室との通路の両側に2艦ずつ彫刻された四天王像は,四天王寺址出土の緑釉四天王像塘(679年頃)と感恩寺西塔出土の金銅舎利器の四天王像(682年頃)よりも身体のプロボーションと彫刻手法の点で進展している。とくに足下に踏みつける邪鬼の姿勢や顔の表現は写実的である。さらに四天王像の腕や指の描写に見える短縮法,足が交差するような立体感は,石窟庵全体に見られる写実的な彫刻描写の端的な例であろう。四天王像のうち,右側の奥の像は塔を手にしていて多聞天であることがわかり,その他の名称の特定かできる。しかし,他の3躯は同様の剣をもっており,持物だけでは尊名の確認ができない。慶州遠願寺址の石塔をはじめ,統一新羅の石塔の塔身には四天王が多く浮彫されているが図像は一定せず,当時の新羅では四天王像は図像的にまだ確立されていなかったらしい。石窟庵の四天王像と比較できる中国の作例は敬善寺洞(660年頃)の2躯の天王像が挙げられる。とくに剣をもつ姿勢や鎧の形態が石窟庵の持国天・増長天と類似しているため,このような図像が唐では七世紀後半に流行したらしいが,石窟庵のような繊細で絵画的な表現には達していなかった。日本の例では東大寺戒壇院の厨子の持国天像や具舎曼荼羅の像の姿勢と指の表現や鎧や天衣の描写が石窟庵像と類似している。これは偶然の一致ではなく,源流になった図像が同じであったことに原因があるのだろう。前室の両壁に4艦ずつ配置された八部衆については,その制作技法や表現様式が一広目天多聞天持国天-697-
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