鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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の比較にはおのずと限界がある。とはいえ,八世紀の彫刻に共通してみられる写実的傾向や,国際的様式を反映していることは明らかである。以上,石窟庵仏像群の図像と様式的問題について幾つかの私見を述べ,問題を提起した。まず,本尊の名称については,降魔触地印の根源的な意味から検討し,これが当時広く流行していた『華厳経』の「世間浄眼品」の中で,釈尊の寂滅道場において文殊と普賢両菩薩が毘慮舎那仏の概念を説く場面のものであると解釈してみたのである。本尊とその脊属の様式からは,本尊は中国の像と比較でき,その他の脊属は八世紀日本の天平彫刻を代表する法隆寺や興福寺,東大寺の諸像とも密接な関係にあるということが明らかになったと思う。このような検討の結果,八世紀当時の東アジアの仏教美術は中国を中心とする国際的な性格を持っていたこと,また新羅と日本の仏教社会の交流が持続的に行なわれていたことが確認できるのである。最後に石窟庵の位置と造成背景について触れておきたい。石窟庵の本尊像は,東海口の大王岩に向いており,大王岩と深い係わりを持つと考えられているが,大王岩は,三国統一を達成した文武大王が,崩御後に東海の護国の龍になることを祈顧して造った水中陵である。『三国遺事』によると,石窟庵は新羅王室の後援によって完成したというか,これは石窟庵が単なる金大成の私寺ではなく,国家官寺的性格も併せ持っていたことを示すものではないだろうか。この研究報告は,財団法人鹿島美術財団の外国人研究者招致援助プログラムの助成金によっている。-700-

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