鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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が終始一貫していました。すなわち,御用絵師として仕える主人(パトロン)はいつも時の権力者,日本の中世から近世ということですから武家の支配者ということになりました。正信の後を継いだ2代目の元信(正信の子)は引き続いて足利将軍家に,元信の孫に当たる狩野家4代目の永徳は安土桃山時代の織田信長や豊臣秀吉,そして徳川家が天下を統一してから以後の江戸時代,17世紀初めから19世紀後半の明治維新までは,徳川幕府と諸藩の大名というふうに,常にその時代の支配的な権力者としての武家に仕えて,流派の繁栄を維持してきました。流派の内部にあっても,武家としての意識が優先され,武家的な組織の論理が優先されました。狩野派の中枢は,狩野家の人々によって独占されたことはいうまでもありません。その狩野家にあっても,一般の武家と同じく本家の長男が最高の権威を持ち,次男以下や分家の当主たちはその支配と指導に従うのが普通でした。必ずしも絵画表現に優れた者が流派全体の指導をするわけではなかったのです。美術家の集団としては実に奇妙なことで,時には満足に絵の書けない当主も出たようですが,そのようなときには流派内の集団指導体制で危機をしのいだのです。封建社会の中にあっては,かえってこうした血縁重視の原則が流派の秩序を安定させ,組織の永続を可能にしたのでした。徳川幕府の崩壊と共に狩野家は急速に没落し,流派として成立できなくなるのも,止むをえないことだったといえるでしょう。常に時の支配者をパトロンとしたのですから,狩野派の絵画が,体制側の思想や美意識を代弁するものになったことは当然です。体制そのものが流動的であったり,革新的であったりしたときは,狩野派の絵画も前衛的であることができました。例えば,室町時代の末期(戦国時代ともいう混乱期)や,安土桃山時代,そして江戸時代の初期や末期がそれに当たります。しかし,江戸時代のほとんどの時期は,徳川政権が長期安定政権として圧倒的な支配力を手にしていましたので,その御用画派としての狩野派の絵画も,様式はすっかり固定してしまい,新鮮な表現の可能性はまった<封印されてしまったのでした。しかしながら,そのような長い停滞期にあった江戸時代においても,狩野派はほとんど唯一の武家公認の絵画として全国的に認められていましたから,一般の人たちへの影響力は,大変に大きなものがありました。当時の人たちは,狩野派の絵をこそ,「本絵」(本来の絵,あるいは正統的な絵とい-721-

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