鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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つ。う意味)と呼び,その他民間,在野の絵とははっきりと区別していました。もとより,町人階級が楽しんでいた浮世絵など,厳格な武家の立場からすれば,到底まともな絵画として認められなかったのです。武家と,武家を手本として仰ぐ庶民一般は,狩野派の絵をこそ支持して,室内の装飾や晴れの日の儀式用に用いたものでした。でありますから,江戸時代の狩野派が果たした役割は,世間の期待に応えてそうした「本絵」を提供すること,さらにもっと大切なこととしては絵画の教育機関として機能したことにありました。狩野家の中枢に蓄積された中国や日本の古画の大量な模本は,教育用の教本として活用され,和漢の画法のエッセンスが周到なカリキュラムにしたがって弟子たちに教えられました。教えを受けた弟子たちの多くは大名の御用絵師でしたから,卒業後それぞれの藩に帰った彼らによって全国くまなく狩野派の絵画が伝えられていったのでした。まさに,狩野派の絵こそが,この時代の「本絵」だったのです。それでは,各時代の代表的な狩野派の巨匠たちの作品をスライドでご紹介し,いつの時代にも当時の本流として君臨した狩野派の歴史を通覧してみることと致しましょ[スライド映写]第一期室町時代後期15世紀後半から16世紀前半1.狩野正信周茂叔愛蓮(中国の文人周茂叔が蓮を愛する)図15世紀後期狩野派の初代,狩野正信の代表作です。中国古代の文人周茂叔が,夏の日に舟を浮かべ,蓮の花を愛でているところです。15世紀後半の制作にかかります。暑い陽射しを高い柳の木の葉影で避け,水の面を渡ってくる風を受けて涼んでいます。高尚な趣味の文人が静かに余暇を楽しんでいるという図柄です。日本の水墨画は,13世紀以降新しい仏教の宗派である禅宗の受容とともに中国から学び,徐々に発達したものですが,正信がこの絵を描いた15世紀の後期になるとようやく,日本人の感性を働かせた独自の様式にまで到達することができました。水墨画に淡い色を付けたこの絵には,もはや禅の宗教性は薄れて,画家の詩的な感受性がのびのびと表されています。そのために,誰にも分かりやすい絵になっています。それまでの水墨画家が,多くは禅僧であったのに対して,狩野正信は,先生の小栗宗湛とともに武家という俗人出身の画家でもありました。狩野派は,禅宗社会の外,かのうまさのぶ-722-

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