8.狩野探幽東照権現(徳川家康)像17世紀中期10.狩野探幽名古屋城上洛殿障壁画・雪梅(雪中の梅と鳥)図襖1633年第三期江戸時代17世紀初期から19世紀後期9.桃田柳栄狩野探幽像17世紀後期これらの肖像画に描かれているのは,江戸時代の開始を宣言するにふさわしい重要な二人です。左の人は,全国を完全に統一し,新しい政治の中心地を江戸,今の東京に開いた,徳川家康です。右の人は,狩野永徳の孫で,江戸時代の狩野派の基礎を確立した狩野探幽です。探幽は,徳川家康とその後継者たちが選択した新しい政治の方針や倫理に従い,狩野派の絵画様式を大胆に変化させました。すなわち,それまでの武力による恐怖の支配から法律に従わせる政治,儒教の教えを守る倫理の確立といった,幕府の統治の姿勢を支持し,それにふさわしい,温雅で,優美な画風へと改めていったのです。江戸時代の狩野派の画家たちは終始一貫してそうした探幽の示した絵画様式に忠実に従うことになりましたので,2世紀半ほどのこの時代を通じて,探幽は絵画界の徳川家康と例えられるほどの重要な存在だったのです。徳川家康の孫3代将軍徳川家光が江戸から京都までの旅の途中,名古屋に宿泊する際の宿舎として建てられた,名古屋城内の上洛殿の襖絵です。4面続く画面の左側3面分ですが,まず余白の多いことが分かります。そして,雪の積もった梅の木が,墨の黒と紙の白とによりくっきりと明晰な形態を浮かび上がらせていることに気づかされます。画面も幾何学的に,知的に構成されています。秩序と統一感に満ちた,静かで平和な絵です。先ほどスライドにうつした,祖父の永徳の檜図を思い出してください。その力強く,荒々しい表現とは,はっきりと性格を変えたものになっていることが明らかです。探幽の絵は,時代の精神が大きく,劇的に変化したことを,物静かに,しかしながら雄弁に物語ってくれるのです。11.同草花写生図巻1668年12.同かわうそ(Anotter)図17世紀中期探幽は,中国や日本の絵画の古典に学ぶとともに,現実の風景や事物の写生にも熱心でした。多くの写生図が残っていますが,左の図は長い図巻の一部で,1668年当時の日本では珍しいトマトを写生したものです。右の図は,「かわうそ」を写生し,ある大名のために観賞用の絵画として完成させた作品です。左に部分を映す「かわうそ」かのうたんゆうとうしょうごんげんももたりゅうえいかのうたんゆうじょうらくでん-725-
元のページ ../index.html#736