いずれも17世紀の末の作品です。江戸時代に入ってからは狩野派主流が敢えて描こうとしなくなった庶民の風俗画は,弟子として自由な立場にあったこれらの画家たちによってかろうじて担当され,絵画界の主流としての面目をほどこしたのでした。17.柏蒻髯源氏物語図屏風1841年それから1世紀半はどたった江戸時代の末の狩野養信は,最末期の狩野派にあって,最大の存在といえるでしょう。晴川院(せいせんいん)の号でも知られる彼は,初心に帰って古典を学ぶべきことを主張し,模写による学習に励みました。それに加えて,中国から伝えられた最新の画風や西洋絵画の画法にまでも関心を示すなど,停滞しきっていた狩野派の画風を活性化することに積極的に努めたのでした。この絵は,将軍の娘の結婚の調度品として作画を命じられたもので,日本の伝統的な画法,やまと絵を新しい感覚で復活させています。貴族化した武家の趣味にふさわしく,雅で,品格の高い描写が印象的です。主題には,日本の古典文学の最高峰,源氏物語から,二つのエピソードが選ばれています。少し部分を見てみましょう。実に精密な描写ぶりです。第四期明治以降近代19世紀後期から20世紀18.橋本雅邦白雲紅樹図1890年19.狩野芳崖悲母観音像1888年1867年,徳川将軍が政治の実権を天皇に帰し,江戸時代は終わります。明治時代になって,日本の絵画界は,西洋の絵画との本格的な対決を迫られることになります。その際,それまで終始日本のアカデミズムとして君臨してきた狩野派の底力が,改めて見直されることになります。ここに示すのは,先ほどの狩野晴川院の子の勝川院に学んだ二人の弟子,狩野芳崖と橋本雅邦の代表作です。いずれを見ても,西洋の画法を東洋,日本の古い画法と折衷して明治の新時代にふさわしい絵画様式を新たに作り出そうと,必死に闘っている様子が明かです。狩野派は,ここでも類いまれな時代との適応力を発揮したのでした。20.下村観山岡倉天心像1914年明治の新政府がつくった東京美術学校には,校長の岡倉天心の信念から,狩野派出身の画家が多数採用されました。この絵は,天心が亡くなった1914年に,愛弟子の下はしもとがほうかのうほうがいしもむらかんざんはくうんこうじゅひぼかんのんおかくらてんしん-727-
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