(1) 外国人研究者招致① 浅井忠と漆工芸(Asai Chu and the Art of Lacquer) 2.平成4年度援助期東京大学美術史研究室研究生惟雄招致研究者:クリストフ・マルケ(ChristopheMARQUET) 報告者:東京大学文学部教授辻間:平成4年4月14日〜平成4年6月27日明治35年の秋,画家浅井忠は2年半のフランス留学から帰国すると,意図的に伝統文化が生きている京都に移住し,絵画制作の他に,はじめての図案,工芸にも深く関わる。この断固とした転回の背景にはパリのジャポニスムとの出会いがあるのはすでに指摘された通りである(注1)。こうして浅井は,様式にこだわりなく,きわめて自由に,ヨーロッパのあらゆる新しい造形運動(アール・ヌーヴォー,ウィーン分離派等)や日本の過去の芸術に,工芸を革新できるフォルムを求めて,自分の作品に応用した。そして明治40年12月に急逝するまで,漆工芸,陶芸,染織などの分野で活発な造形活動をみせたのである。没後,周囲の友人たちの手によって,これらの作品は彼の洋画,日本画と同じレベルで,『黙語図案集』(藝丹堂,明治42年刊)として一冊に収めるほどであった。その中には蒔絵図案30点,漆器5点がのっていて,漆工芸における浅井の業績をみることができる。しかし,これらの作品は浅井が描いた蒔絵図案の一部にすぎないと最近の調査で分かった(注2)。私もこの間,蒔絵師杉林古香の遺族に保管されている図案誌『小美術』,浅井と古香の共同制作品とその図案・置目,「京漆園」関係史料などを調べる機会にめぐまれた。これらの資料によって,浅井忠と杉林古香の関係,「京漆園」における浅井の指導的な役割などが明らかになった。正岡子規が『ホトトギス』で月並派の俳句を排斥し,俳句界を刷新したことをモデルにして,京都の図案界を革新する主旨で,図案誌『小美術』創刊という冒険的試みをした若手の芸術家たちがいた。指導や協力を求めて明治37年4月11日に浅井を訪ねたこれらの芸術家,すなわち津田青楓,西川一草亭,杉林古香は,浅井から予想外の-732-
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