⑥ 在銘懸仏における尊像の図像的研究研究者:島根県立博物館学芸課長的野克之1)はじめに神仏習合という我が国独自の宗教形態から生まれ出た美術作品に鏡像と懸仏があり,両者はあわせて御正体とも呼んでいる。御正体のうち鏡像,すなわち鏡面に尊像などを毛彫りしたものは中国や韓半島にも見られ,その発生はいまだ詳らかにはされていない。しかし鏡像自体は少なくとも我が国独自のものとはいえない。それに対して懸仏は同様な作例を我が国以外では見ることができず,我が国において独自に発生し,独自の発展を見せた美術作品であると定義してもよさそうである。懸仏の歴史は平安時代末頃に姿を見せ始め,鎌倉時代,室町時代,江戸時代と,時代を経ると共に制作される数も増えるが,明治初年の廃仏毀釈と共にその歴史に幕を閉じ,それだけではなく神仏習合との関係から不用なものとして壊され破棄されたものさえあった,という不遇な一面を持った美術作品でもある。それだけではなく,時代と共に尊像に稚拙な表現が目立ち,室町時代以降はおよそ美術作品というにはばかれる,鏡面に淳像らしい膨らみだけがついた,稚拙を通り越して雑としか言い様のないものまで現れるという,他の宗教美術と比較すると特異な歴史を持っているといえる。以上のように簡単に懸仏の歴史を振り返っただけでも,いくつかの素朴な疑問が湧いてくる。すなわち,懸仏の導像にいつ頃から稚拙な表現が現れたのであろうか。その稚拙な表現の背景(作者・奉納者・杜寺)にはどう言った事情があったのであろうか。懸仏の用途の変化はあったのか。懸仏の素材や技法に変化はあったのか。懸仏の法量に変化はあったのか。この素朴な疑問に対して今までは大ざっぱに,時代と共に稚拙な懸仏が出現し,その背景には仏師が関与していた懸仏から,仏師ではない職人たちが大量に,しかも安価に制作し,庶民たちも気軽に奉納に参加できるようになった。また,時代と共に懸仏は大型化し,絵馬化していくといった解釈がなされてきている。しかし,懸仏は先程も述べたように壊され破棄されたものさえあったという不遇な歴史を背負っており,明治時代以降の美術史の研究においてあまり扱われていない,すなわち基礎的なデータが極端に不足している分野で,仏像彫刻や仏教絵画のように-75-
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