ないが,釈迦如来懸仏の制作の27年後に制作されたものである。作風には似通ったものがある。なくなった懸仏を補作したものか。いずれにせよ,この地蔵菩薩像の制作も仏師によるものと考えるべきであろう。なお,薬師如来懸仏の当初の鏡板は失われており,現在は後補の鏡板が付いている。像の作風は,地蔵菩薩像にきわめて近い。これら観福寺の3躯の像は背面に鏡像に留めるための柄と,膝下に蓮台を留めるための柄がある以外は通常の金銅仏と変わらず,これらの柄がなく鏡板が欠失していれば懸仏の尊像と決して気がつかない。むしろ,懸仏の聰像としては例外として扱った方がよいような尊像である。以上のように在銘懸仏の中に仏師名の記された作例はきわめて数少ないが,仏師名が記されていなくともその作風から仏師が関与したことを充分示唆する作例は他にもある。観福寺蔵地蔵菩薩懸仏の延慶2年(1309)までに制作された懸仏の中で記年銘のあるものから見ると,まず愛媛県三島神社蔵の天部形懸仏があげられる。本懸仏は,その尊像が鏡板とは別鋳で,しかも頭部と体部を分鋳しているなどレリーフというよりも丸彫り像にかなり近い。さらに,応治元年(1225あるいは1285)という私年号の記された個人蔵の千鉢阿弥陀懸仏,宝治元年(1247)の福岡県蔵持山神社蔵の十一面観音懸仏,建長4年(1252)の個人蔵十一面観音・不動毘沙門,正嘉元年(1257)の岐阜県新宮神杜蔵の虚空蔵菩薩懸仏,弘長3年(1263)の山形県若松寺蔵の聖観音懸仏,文永6年(1269)の個人蔵聖観音懸仏,文永8年(1271)の愛知県東観音寺蔵の馬頭観音懸仏,同年の佐賀県水上区蔵の薬師如来懸仏,建治元年(1275)の東京国立博物館蔵の聖観音懸仏,弘安5年(1282)の個人蔵の千手観音懸仏,などがかなり技術的に高いものを持った仏師たちによって制作されていることがその作風からも推測される。少なくとも13世紀までは,懸仏の尊像の制作にかなり仏師が関与していたことが示唆できる。前章で仏師名のある懸仏について作例をあげてみたが,今のところ弘安5年(1282)銘の観福寺の作例以降は見あたらない。それ以降の懸仏に記された作者には仏師ではなく大工とある。大工名の記された懸仏の初例は,現在は東京匡立博物館蔵で群馬県北群馬郡渋川村出土の大威徳明王懸仏である。直径14.9センチメートル。円形の鏡板に覆輪をめぐらし,左右上方に懸垂用の耳環を付ける。鏡板中央に牛に乗り,3頭で5)鋳物師による懸仏-79 -
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