6)おわりに天正7年(1579)埼玉県大福寺蔵十一面観音懸仏大工柏原原田天正18年(1590)埼玉県白髪神社蔵十一面観音懸仏大工神田宮内天正18年(1590)埼玉県白髪神杜蔵十一面観音懸仏大工神田宮内天正19年(1591)埼玉県白髪神社蔵十一面観音懸仏神田半十郎天正19年(1591)埼玉県白髪神社蔵十一面観音懸仏神田図書助寛永9年(1632)神奈川県山王杜蔵阿弥陀三尊懸仏大工木村吉次寛永13年(1636)神奈川県智恩寺蔵阿弥陀三尊懸仏大工森久佐衛門重久承応3年(1654)石川県円正寺蔵薬師十二神将懸仏大工村田藤右エ門秀吉寛文4年(1664)石川県瑶泉寺蔵阿弥陀如来懸仏大工与兵衛延宝6年(1678)神奈川県山王杜蔵釈迦三尊懸仏大工木村重則享保12年(1727)岩手県東林寺諏訪大明神蔵十一面観音三諄懸仏鋳物師茂平次懸仏の仏師名が弘安五年(1282)の観福寺蔵釈迦如来懸仏と十一面観音懸仏を最後に見あたらないのに対して,鋳物師名の懸仏は,貞和4年(1348)の東京国立博物館蔵大威徳明王懸仏と同年の鎌形八幡神杜蔵薬師如来懸仏以降各時代に見られることが注目される。以上,在銘懸仏の尊像を時代と共に眺めてみたが,12肌紀末から13世紀末までの約1祉紀間はその雌像に仏師が深く関与し,同時代の仏像彫刻とほぼ同様な特徴を示すが,14世紀からは仏師ではなく鋳物師が関与するようになり,同時に尊像に稚拙な表現が目立つようになる。たとえば,正中元年(1324)の鳥取県立博物館蔵阿弥陀如来懸仏の尊像は打ち出しで造った阿弥陀如来像の体躯と台座に,線刻で衣文等を表現しているが,それ以前に見た同一技法で制作した尊像とははっきり異なり,単純なものとなっている。また,嘉暦3年(1328)の島根県那智神社蔵阿弥陀如米懸仏の尊像もほぼ同様な表現となっている。同様な諄像をつけた懸仏は,これ以降大量に制作されており,無銘の懸仏では同様の像が主流になると言ってよい。時代は下がるが,文明6年(1474)の島根県鰐淵寺蔵山王七所本地懸仏の尊像は,打ち出しで造られているが,七躯共全く同一の体躯に線刻で目,鼻,口,腕,衣文,台座等を表現している。かなり近寄って精査しなければ尊像の違いには気が付かない。二のような尊像も15世紀以降は数多く現れてくる。-81 -
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