注以上の時代と共に見られる変化はやはり懸仏の一般化と言うべきであろう。在銘に限ると数こそ少ないが,14世紀以降に制作されたであろう無銘の懸仏が,近年神社の屋根裏等から大量に発見されることもあり,その数は膨大なものである。十四世紀以降の懸仏の制作は,安価に制作できない仏師の手を離れ,大量に安価に制作できる鋳物師の手に移って行ったと考えるべきであろう。これらの鋳物師による懸仏は比較的小振りのものが多く,時代と共に懸仏が大型化していくといったことは一概にいえないことがわかる。試みに在銘懸仏の直径の平均値を次の通り求めてみた。(単位はセンチメートル)限られた数の資料から平均値を求めるのは問題が多く,あくまでも参考値としたいか,12世紀から13,14世紀と大型化して行き,14世紀をピークとして,今度は15世紀から徐々に小型化して行く傾向にあることがこの数字から見て取れる。滋賀県明王院に数面ある懸仏の様に大型のものは,15世紀初頭を最後にその後はほとんど現れておらず,懸仏の大きさの問題は単に大型化して絵馬化していくという単純な問題ではなく,後半の小型化も指摘すべきであろう。今回200点余りの在銘懸仏の資料から考察を試みたか,今後も多くの資料収集を続け,より精度の高いデータとして行き,懸仏の問題についてさらに深く考察して行きたい。銘の東京都氷川神杜蔵の懸仏と仁平2年(1152)銘の個人蔵の懸仏があげられている。12世紀(1156■1200)28.3 13世紀(1201■1300)35.6 14軋紀(1301■1400)43.9 15世紀(1401■1500)35.8 16世紀(1501■1600)27.9 17世紀(1601■1700)25.9 18世紀(1701■1800)25.6 19世紀(1801■1900)19.3 (1) 鞭田敏郎「懸仏記銘年年表」『考古学雑誌26-5』(昭和11年5月)には康保2年(965)(2) 的野克之「島根・東陽庵の仏師蓮法作薬師如来坐像J『ミュージアム459』-82 -
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