—印章の使用例からのアプローチ—による再評価か進められ(注2)'今日では,鈴木進•吉沢忠らによる『浦上玉堂画譜』⑧ 浦上玉堂作品の編年について研究者:岡山県立美術館主任学芸員守安はじめに文人画家として知られる浦上玉堂(1745-1820)は,備前岡山城下石関町天神山の備中鴨方藩邸内(岡山市天神町)で生まれた。彼は生涯山水のみを描写の対象とした画家である。その彼は時として孤高の画家とも評される。彼が師事した人も,彼に師事した人も見当たらない。粋.灌洒といわれる江戸時代絵画の潮流ともはとんど無関係に制作活動を行い,独自の画境を築いたが故にである。ただし,玉堂自身は画家ではなく,七絃琴の奏者,琴士を以て任じていた。彼は「写画。而不識六法。漫箪而已。而趾為画人。」(自分は絵の描き方を知らず,気ままに描くのだから画人というのは恥ずかしい)と記し(注1)'専門家,職業画人とみられることを拒否する。巧みに描こうと意識せず,心の赴くまま筆を揮ったにすぎないというのである。玉堂の76年間にわたる生涯は,50歳で武士として築き上げたすべてを投げ捨てて脱藩を挙行するまでの岡山在住時代を前半生,それ以降,自由に諸国を歴遊した後,京都に定住して没するまでの文人としての後半生に大別できる。次に,画業の面から画期を求めれば,前半生からそれに続く60歳代の前期までは画風が揺れ動き,自己の様式を十分に確立するまでには至っていないと思われる。しかし,中期以降は南画独特の空想的な山容をリズミカルに積み重ね,自由奔放に湿潤な筆を走らせる玉堂独自の作風が看取できるようになる。その一方で,後期には大自然の微妙な移ろいを繊細に表現した小画面の作品が描かれ始める。これら小品の数は,70歳代に入るとさらに増え,同時に完成度も高まっていく。この時期,玉堂は焦墨という膠気のない枯れた墨を好んで用いる。しかも乾いた筆を揮ってかすれた感じを出し,擦りつけるように筆を運ぶ。渇筆,擦筆と呼ばれるのがそれである。こうした彼の筆墨法が胸苦しいまでの緊張感をもたらし,密度の濃い画面を創り上げるのである。さて,この魅力的な画家浦上玉堂に関しては,大正から昭和にかけて大原孫三郎ら(注3)を筆頭とする優れた研究業績が蓄積されるに至っている。しかしながら,画疇立以前,すなわち60歳代前期までの作品については十分な調査検討が行われ,論牧-91-
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