鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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3.玉堂の生涯ー前半生以上262件中32件(内,書6件)にすぎない。しかも,もともと同幅であった作品を減じた場合,実数は29件となり,落款や確実な状況証拠等によって制作年が判明するものは,総数のおよそ10%程度ということになる。そしてその中で,最も早い作例は*隷書二字「草亭」紙本墨書天明元(1781)年37歳であり,最も遅いのは*「懸崖絶壁図」紙本墨画となる。次に,制作年代別に作品の分布を下のく表1〉で一覧してみよう。く表l〉このく表1〉においては,年代区分が判然としない作例は,各年代の前後に割り振ることで対応しており,数値はあくまで概数でしかない。したがって,詳細はく表3〉を参照していただきたい。しかしながら,玉堂がいつ頃画業に励んでいたかという,いわば数量的な面での制作傾向は十分把握できるはずである。しかも,それは玉堂の生涯ときわめて深く関連していることがうかがえる。以下,玉堂の生涯の軌跡を画事との関わりに注目しながら辿ってみよう。玉堂は,49歳で致仕,翌50歳で岡山を出奔するまで備中鴨方藩士としての生活を送っている。本名は(孝)弼,幼名は市三郎・磯之進,字は君輔,通称は兵右衛門,初号は穆斎,35歳で玉堂琴士と改める。浦上家は武内宿禰を遠祖とし,古代の名族紀氏の流れを承け,室町時代は播磨の守護大名赤松氏の重臣として備前守護代を務めた有力武士の家であった。王堂が誇らしげに「武内大臣之孫」印,「紀弼」印を使用するのはこれがためである。同家は一時没落したものの,江戸時代になると備前岡山藩池田[浦上玉堂延享2(1745)年生一文政3(1820)年没]計年代作品件数30歳代40歳代37 50歳代32 60歳代116 70歳代76 262件文政2(1819)年75歳% 作品点数1 0.4 1 14.1 37 32 12.2 44.3 128 29.0 92 100.0% 290点% 0.3 12.8 11.0 44.1 31. 7 99.9% -93-

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