家の分家である鴨方藩主家とも血縁関係を結んで,藩内では重んじられることになる。そして彼は7歳で家督を相続し,37歳で藩士の非違を監察する大目付役に登用される。これから推して,彼は少なくとも30歳代半ば過ぎ頃までは,真面目な武士,優秀な工リートと認められていたと思われる。なお,その頃までの玉堂と画との接点は師授関係にとどまらず,ほとんど何も見出せない。20,30歳代の彼は,専ら七絃琴と詩作に打ち込んでいたようである。しかしながら,弾琴・詩作という行為において示された方向性,すなわち形式の整美よりも意思を真摯に,率直に伝えようとする態度,しかも執拗な感を与えるという点については,やがて本格化する画事においても認められるところであろう。安永8(1779)年,35歳となった彼は江戸において明の顧元昭作の七絃琴を入手し,その琴銘「玉堂清韻」にちなんで「玉堂琴士」と号する。そして翌9年をあまり隔たらぬ時期に来舶清人画家の方西園筆「富嶽図」を模写したといわれ,玉堂も琴棋書画を重んずる文人の一員として南画を学び始めたようである。この玉堂の確認できる最初の絵画作品は,天明6(1786)年9月9日作の「晴埃釣艇図」である。時に玉堂42歳。翌7年には「南山壽巻」,さらにこれとほぼ同時期に「南村訪雪図」を描いている。以上3点はそれぞれ画風が異なるものの,いずれも単調な画面構成で,技術的な面での未熟さを露呈したものといえる。だが,注目すべきは,これら最初期に位置する作品3点すべてが,岡山城下きっての豪商河本家のために描かれたものであったという事実であろう。画業に意欲を膨らませた玉堂は,河本家が収蔵する中国・朝鮮・日本の絵画,さらには画譜・画論書類を原典とし,独学で本格的に取り組み始めたのではあるまいか。琴・書・画に関する記事が連続する。40歳代半ばを迎えた玉堂の処世態度は,公より私に,文事に重きが置かれていたのである。寛政3(1791)年刊の著作『玉堂琴譜』に,友人の儒者皆川澳園は「玉堂主人酷好在琴,官事之暇携琴独往来山水奇絶虞」と序文を寄せている(注4)。琴を携えて独行する玉堂の姿を思えば,彼の画中に登場する高士その人のイメージと合致するに相違ない。ともあれ,玉堂の岡山在住時代の画業の歩みについては,30歳代の半ばとなって画筆を執る機会が増え,40歳代に入って本格化したと理解するのが妥当であろう。と同時に,玉堂が生涯をかけて描き出そうとした山水のイメージや人・樹木・家屋・山と43歳となった玉堂は大目附役を解かれ,左遷される。その前後の彼の年譜には,詩・-94 -
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