鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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4.玉堂の生涯ー後半生50歳,城崎を出発,大坂を経て江戸。51歳,会津若松。翌年,会津を去り,江戸,いったモチーフの基本形は,40歳代の半ばには既に出来上がっていたと判断して差し支えなかろうと思われる。すなわち,俗世界を逃れて人里離れた辺境の地を琴を抱いて歩む高士,あるいは草薩に住まって読書に勤しむ高士。自分自身を仮託した高士と自然との融和,あるいは対峙。だが,それを如何に表現するのかという点で玉堂の模索は続くのである。寛政6(1794)年,玉堂は春琴・秋琴の二子を連れて逗留中の但馬城崎から脱藩届を送付する。それは,もはや老境ともいうべき50歳での決断であったが,彼にとってきわめて重要な画期,転換点となっている。玉堂は出奔することで武士としての束縛から離れることを願い,文人として人間的な自由を求めたとすべきであろう。以後,当分の間,諸国歴遊の時期が続く。信州,京都を経由して大坂。53歳の玉堂は「京師ノ人」と呼ばれている(注5)。京都を本拠地としていたのであろう。いずれにせよ,50歳代の玉堂の消息はこの程度しか判朋せず,彼の足跡についてはほとんど捕捉不能とせぎるを得ない。先の作品の年代分布く表1〉で見たとおり,50歳代の比率が低かった理由としては,この彼の漂泊の旅が続いていたことが大きかったとすべきであろう。もちろん,完成度が十分でなく,無筏され,失われた作品も少なからずあったに違いない。ところが,60歳を過ぎると動きがにわかに鮮明となる。60歳の彼は,大坂から京都,名古屋へ。61,2歳の時は九州に滞在していた。63歳の玉堂は大坂に姿を現すか,その彼の制作風景を田能村竹田は「玉堂は酒を飲んで気分が高揚してから筆を執り,酔いか醒めると止め,これを繰り返して1幅を仕上げる」と『山中人饒舌』において証言している。事実,玉堂には「酔作」と款記した一群の作品があり,彼においては適当な量の飲酒が,精神の解放と集中力の強化という相反する効果をもたらすのであろう。しかも,1幅描くためにこれを十数度も繰り返していたというからには,制作にあたって,かなりの時間を費やしていたことが知れるのである。64歳からは,水戸,会津,飛騨高山,金沢と旅を続け,67歳になって奥州から京都へ帰着し,長男春琴と同居を始める。ようやく,定住の地を得たのである。春琴は当時33歳の若さであったが,京都有数の人気作家の地位を確保しており,玉堂の暮らし-95 -

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