鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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「I白髯茉士」「J栞王」「N梨為吾家」「R玉堂榮士監勅拓口」「T酔郷」の6顆は玉年9月4日,京都で没し,本能寺に葬られた。少なくとも,前年までは画筆を握って5.印章とその使用年代G, M, 0, Q, Wの5種であり,その印影の大きさについては『浦上玉堂画譜』のを支えていたと推定される。玉堂は琴詩書画に遊ぶ自適の生活を送り,文政3(1820) いたことが遺作によって確認されている。脱藩の時点においては,玉堂は画人としての本領を発揮する段階に到達していない。彼の画の真価は,年齢を重ねるほど輝きを増してくる。心の動きのまま箪を執り,筆を揮う。自分自身の心の動きを,そのまま表現することに大きな喜びを感じていたのであろう。一見かきなぐったかのようにみえる画にも,玉堂の内面の陰影やその微妙な移ろいが,実に繊細に描き出されている。こうした玉堂画の魅力が引き出されるには,脱藩後,さらに十数年もの時間を必要としていたのである。それでは,この度調査対象とした262件290点の作品において,玉堂はどのような印章をどれくらいの頻度で,いつ頃使用していたのかを下のく表2〉を通じて確認してみたい。なお,現時点での玉堂の所用印は前述した『浦上玉堂画譜』によると24種とされている。筆者が実見したのはこのうち19種であるが,図版上で判断しても24種とするのが妥当と思われる。そこで,<表2〉では『浦上玉堂画譜』中の印譜の整理順(名・字・雅号を先,間印く関防印・遊印〉を後)に揃えた。〈表2〉のうち,「印数」とあるものは作品の署名位置に押捺された印章の数,「関防印数」とは関防印として使用された数,「遊印数」とは遊印として使用された数をいう。また,「使用始ー終」とは,データ上で,当該印章の使用開始から終了時までをいい,「確定年齢Jとは,その使用が確認できる年齢を指す。下記のCl,C2印については共に白文連方印で印文も同じであるが,Clがほぼ四角形であるのに対し,C2の印影の外形がやや楕円に近く,別印と判断される。さらに,Cl・C2印はD印とも似ているが,文字の間隔,いわゆる下駄の間隔に違いがあり,広い方をC,狭い方をDとした。ちなみに,未見の印章は印譜から類推した。若干の誤差を念頭に置いたとしても,このく表2〉によって各印の使用年代をほぼ明らかにすることができたといえるのではあるまいか。このうち,「H武内大臣之孫」堂の長男春琴の家に伝わり,1993年,岡山の林原美術館に寄贈されたものである(注-96-

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