鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注(2) 大原孫三郎は収集に努め,1933年には所蔵作品をまとめた『浦上玉堂画譜』を編(3) 鈴木進•松下英麿•吉沢忠編著,中央公論美術出版,1977-79年(4) 毛利芙揺の序文成立は1783年。刊行は1789年。洪園の序文を掲載した再刊は1791おわりにこれまで,主として玉堂所用の印章を通じてデータ作りを試みてきたが,これだけで編年を作り上げることが不可能なのは明白である。ただし,<表2,表3〉は,制作時期を知る指標として利用できるはずである。今後は,さらに多くの資料を収集し,表に組み込むことで,一段と分類の精度を高めることが肝要であろう。併せて渇箸.擦筆といった筆法,玉堂の遺品の中に収められていた飾草筆(注8)の使用という面などにも着目し,その独自の筆墨法を検討することによって,編年をより確度の高いものに仕上げる努力を続けねばならないと思われる。ところで,『玉堂琴譜」に「余,また常に琴を戒めるは,ー曲を弾いて止める。多曲を貪る勿れ。(中略)若し高尚の志有らば,ー曲にて足る。」という一文がある。志をもってー曲を弾けば,それで十分とする玉堂の姿勢は,画業においてもまったく同様であった。玉堂が作品として遺る40歳代からただひたすら山水を描き続けた理由のひとつは,その言葉の中に見出すことができるだろう。(1) 「自識玉堂壁『玉堂文房十八友之ー』」。これは1797年刊『玉堂琴士集』後集の巻頭に収められている。集発行している。年。(5) 『篠崎三島翁六十賀筵』時の寄せ書きの図上に賛した篠崎小竹の文中にある。(6) 浦上家と林原美術館を運営する林原家とは縁戚関係にある。同館では受贈を記念し,1995年4月「生誕250年記念特別展浦上玉堂」を開催した。(7) 例えば,「山澗読易図」(岡山県立美術館蔵)には画面に大きな墨こぼしが何ヶ所も認められる。(8) 飾草(しそう)とは「こうぼうむぎ」あるいは「はまむぎ」「ふでくさ」などと呼ばれるもので,王堂はこの海岸に生える野生の麦の穂を筆の穂として使用した。不均等な太さの幾重にも分かれた線が描けるだけでなく,側筆部は玉堂の特徴的-103-

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