鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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2.シュルレアリスムに振り回されてきたデ・キリコの評価2)。~1929年)にシュルレアリストが好んだ呼称であり,後にシュルレアリストと決裂し何かということを読みとることにより,デ・キリコが前衛から古典に転向していった画家であるという評価,あるいは1918年以降の作品が堕落であるといったシュルレアリスム側からの誤解を脱し,デ・キリコの全体像にもとづく評価軸の一端が示せるものと考えている。なお,この研究は,前衛主義のみを評価してきた20世紀美術の進化論的な視点に対して,もうひとつの評価軸を確立しようとする私の重要な基礎研究の一環でもある。デ・キリコが1978年11月20日,その90年の生涯を閉じたとき,日本の美術雑誌『美術手帖』でも追I‘卓特集が組まれた。その巻頭に以下のような文章があった。神秘的な光,人気のないルネサンス風建物,不吉な立像,オブジェの謎めく併置一ーキリコの夢は,フロイト流の解釈を喚起するに十分であろう。それらは,消滅寸前の古典文化を負うイタリアの,産業的立ち遅れを象徴するイメージでもあろう(注ここに表れているのが,日本におけるデ・キリコの標準的な評価であったと思われる。この文章で注目しなければならないのは,「キリコ」という呼称と,「フロイト流の解釈」という箇所である。まず,「キリコ」という呼称は,日本でも長く使われてきているか,実は1955年の二ューヨーク近代美術館での個展の図録の巻頭に,作家自身からのクレームのもとに「キリコ」ではなく「デ・キリコ」と呼称する旨を企画者ジェームス・スロール・ソービーが書いている(注3)。「キリコ」という呼称は,デ・キリコの第二次パリ時代(1924ていく中で,デ・キリコが嫌った呼称でもある。もうひとつの「フロイト流の解釈」というのは,換言すれば「アンドレ・ブルトンのフロイト解釈によるシュルレアリスム的手法」ということであろう。ブルトンはフロイトについて次のように述べている。-109-

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