ぃ,最も純粋な喜びを与えてくれる」(注14)ものであった。その「説明できない啓示」が,デ・キリコの形而上絵画の原型になっていったものと思われる。ベックリンの《オデュッセウスとカリュプソ》は,地中海を放浪のすえに漂着した島で,女神カリュプソの愛人になり,安楽な生活をしていたオデュッセウスが,島に留まるなら不死の命を与えようというカリュプソの約束にもかかわらず,故郷に残る妻ペネロペイアに思いを馳せる姿を描いたものである。デ・キリコは「説明できない啓示」を「ベックリンが描いた海岸における,カリュプソの島の黒々とした岩礁の上に直立するオデュッセウスの悲嘆にくれた荘厳さ」(注15)のなかに見たのである。デ・キリコの《神託の謎》では,オデュッセウスは首のない彫像に,カリュプソはカーテンに仕切られたヘルメス像に,島の黒々とした岩礁は建物の内部の広々とした石の床に,オデュッセウスが望郷の思いで眺めていた海は海辺の街に代えられている。したがって,ギリシア神話の物語的な部分が薄まり,そのエッセンス,つまりそこに居ながら,心はそこにあらずという望郷の想いが画面に強く出されている(注16)。作品の大半を占めるのは,何もない床と壁である。これは不在を強調するものであると同時に,神託を受ける前の空の状態を示しているものでろう。つまり,何か不足してるシチュエーションを作り出して,それによって見るものに不安な感情を生み出させ,そこを埋め合わせようという感情を引き出させるのである。それが,神託であり,啓示であるといえよう。《子供の脳》を《神託の謎》と対照してみると,石畳の床はテーブルに,レンガの壁は黒い壁に,首のない彫像は眼を閉じる人物に,ヘルメス像はテーブルの本に,海辺の街は柱廊の建物と赤い塔に代えられている。また,カーテンの存在と窓の存在はそのまま流用されている。首のない彫像はオデュッセウスの姿を引き継いだものであり,望郷の念を強調するために頭部を除去したものと考えられる。とすると,眼を閉じる人物は,何かを思念することを強調しているのであろう。ここで強調されるべきは,「何か」ではなく「思念」そのものである。あるいは,啓示を待つだけの何もない思念,ないしは瞑想といえるだろう。それは,「本」によって増幅される。本は思念ないしは瞑想そのものを表すとともに,シオリは眼を閉じる人物が思念ないしは瞑想の最中にあることを示しているのである。したがって,眼を閉じる人物が父親であるかどうか(注17)ということはあまり重要ではなく,この人物が「説明できない啓示」を象徴する無表情な彫像-115-
元のページ ../index.html#124