鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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323号の墓からのみ,わずか2点の木桶が発掘されたに過ぎない。しかし楚涌の文化的く表1〉を通じ,今世紀の50年代から80年代にかけて,楚桶の出土状態を知ることができる。春秋・戦国時代の楚墓から大量に出土した礼器,楽器,兵器,飲食器,馬車具に比べ,早期桶の数量は極めて少ない。例えば1975年11月から翌年にかけ,湖北省江陵県雨台山から,554基にのぼる数の楚墓が発掘された。前年に,既に発掘された4基の墓と合わせると,558基になる。出土品は4,200件に及ぶか,桶については,ただ内包を追求するには,これらの資料を整理することが唯一の手掛かりとなる。また桶の分布状況を把握するにあたり,河南省南部,特に湖北省,湖南省に集中していることに注日をしたい。〔地図1〕また,四川および浙江の両地は,政治・楚文化の中心地からは遠く,それぞれ西南と東南の隅に位置するが,両地は戦国時代において蜀,越の領地であり,当然ながら楚から多大な影響を受けた。四川省青川県から出土した11点の彩色が施された木桶,また浙江省紹興市で発見された6点の青銅で作られた建築模型の中で跳く姿の桶である。これもまた楚地桶の参考資料として引用できよう。三.木質の楚桶我々は木製の楚桶への観察を通じ,その伝統芸術は,歴史的淵源に基づき形成されたもので,楚地特有の気候,風土,人文など,各要素の制約の下,自ずと当時の風潮に順応する桶人彫刻が誕生したものと認識できる。春秋・戦国時代に生まれた「地域性」は前朝後代と同様,ごく自然に生じた文化的現象である。とりわけ,秦王朝により中華帝国が築かれた前夜の楚地の特質を分析すれば,楚国の滅亡とともに完全に失われたわけではなく,むしろ統一後,楚の造形芸術は全国範囲で,しかも強大な促進的役割を果たしたことが明らかにされている。特に漢代以降,経済の発展に伴い,定型化された木質楚式桶は,質,量ともに向上し,しかもその影響は斉魯大地にまで及び,非常に似通った作品が現われた。人々は楚桶を語る際,しばしば「姿態かほっそりしている」などの言葉を用い,楚桶の芸術性を高く評価し,中原や山東桶とは区別している。形象から見るかぎり,そうした認識は正しいと言えるが,ここにとどまるわけではない。というのは,この言葉は楚人によって作られたあらゆる芸術作品を見れば,その片側のみを述べたに過ぎないことが認識できる。楚の領地から発掘された漆器および織物をはじめ,汲県山彪-128-

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