鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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鎮の銅壷に刻まれた「楚の軍人」にしても〔図1〕,楚文化の影轡を強く受けた曾侯乙墓から出土した編鐘を支える武士桶〔図2〕にしても,そこに施された人物の形象は,必ずしも楚桶のように細長いものではなく,明らかにずんぐりしている。私の見解としては,それは南北における美意識の差ではなく,主として材料の特質によるもので,木質材料は楚桶形態を決定づける直接的要素となり,楚桶の特徴である「細長の体型」の人物の形象を作るには都合が良かったと考える。多くの文章において,しばしば「楚王は細腰の女性を好む」との文献が引用されるように,細腰は南方特有の芸術観念であった。楚の霊王は柳腰を好んだため,国中の女性は競って節食し,中には餓死する者さえあった。北方でも太い腰の女性を好んだ君王は存在しなかったであろう。かつて陶桶でも,木桶のように「細腰」を作り出そうとしたか否か定かでない。少なくとも陶桶の場合,支えがなければ,倒れる可能性は木桶と比べはるかに高いと言えよう。春秋・戦国時代の1面の全体像を見れば,当時の中国人にとって,高貴な者を象った桶を除き,大多数の桶(もちろん楚桶も例外ではなく)は,葬儀での小道具に過ぎなかった。材料の選択において,南方人の思考は,北方人とは明らかに異なっていた。中原,斉の地には,陶桶を除き,泥,鉛,銅(象眼細工を含む)などの用材もあった。南方の桶の素材は何点かの「灯を持つ桶」が銅製であるのを除き,全て木質である。ここで何故「楚の地では,多くの木桶が作られたのか」との疑問が生ずる。伝統的解釈では,一般的に自然条件によるものとされている。南国の降水量は比較的多いことから,樹木の成長に都合がよく,桶製作に豊富な原材料を提供した。この道理にかなった解釈の仕方は理解し難いわけではない。しかし,問題はこれにとどまるわけではない。以下の問いには,どのように回答すべきか。当時,北方の人々は,木材を使用していなかったのか。答えは当然「いいえ」である。木造は,中国建築様式の一つであり,北方で発見された多数の遺跡から,大規模な木造の宮殿や一般の家屋が存在していたものと思われる。その他,上述した木に関する文献は,全て北方との関わりがある。孔子も「朽ちた木は彫刻しかねる」と述べ,後にそれは成句となった。それでは,当時の南方には陶土はなかったのであろうかーそれはあり得ない。南国における陶器の優れた造形および紋様の成就は,当地の人々が陶土を好んでいただけではなく,陶土への熟練した技能を有していたことによる。中国経済は,基本的に農耕作業により構成されている。従って,古来より中国人は-129-

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