作品を通じて理解できる。しかし,戦国時代に入ってから筆と墨を木彫に使用することは,実に革命的壮挙であった。これにより1面の顔は,初めて感情を持ち,体全体に人の息吹か与えられ,さらに彩色など,あらゆる手段を取り入れることで,一層表現力が高まり,単に金属のみ,あるいは陶土のみの場合と比べ,当然ながら芸術性が一歩前進したこの時期,作品の心理状況の把握が困難でないのは,楚桶に限って言えることである。以下「構造美」について述べる。楚桶の中には,非常に険しい,または緊張感の張り詰めた雰囲気の実例は少なく,和やか且つ軽快なリズム感が醸し出されている。その構造からは,単純であるにもかかわらず,内容的に凝縮された印象を強く受け,親近感をも漂わせている。例えば湖南省長沙市揚家湾M006から出土した楽器を演奏する桶は,木桶の動勢表現の弱点を避け,やや下に傾いた一つの琴を象り,その楽器を演奏する姿が如実に表現されていた。また湖南省長沙市近郊で出士したとされる剣を持つ木桶は,(第一類の軍事武装類参考)その全身に甘長る躍動感が微妙に表現されている。また上述の第四類にあたる河南省信陽市長台関M2から出土した舞踏を行なう形象の1甫の,一方の手を高々と挙げ,もう一方の手は下向きにして体を旋回させる様からは,付属品なしに,ただ限られた材料のみを利用し,あらゆる努力の下,芸術的技能を身につけていたことが認識できる。楚桶の出現は,中国造形芸術の発展に疑いなく促進的役割を演じた。当時,六朝時代の社会全体に行き渡った「秀骨清像」の情緒が,既に芽生えはじめていたものと思われる。楚と六朝における600年もの隔たりの中から,共通点を探しだすのは正当な方法であろうか。長年に渡る不変の気候風土の中で,ある種の文化芸術の基礎が築かれる事はしばしばで,それが時の流れとともに失われることはない。しかも文化芸術理念の基盤が固められた両時代は,中国古代史において社会全般が最も激変した時でもあった。「以形写神」,「気韻生動」を既に具えていたと言っても過言ではない。両時代とも,人々に対し同様の感覚を享受させようとした出発点において,全く相違はなかった。以上のごとく,いわゆる「独創的な楚桶芸術」の形成は,1甫の材料によって導かれたものである。その表現する対象の一部は,墓主と何らかの関係を有していたと考えられる。楚桶芸術とは,一種の人間表現を課題として,その真新しい芸術の風格が,交互に熟成そして形成されたものであり,しかも後世に対し積極的影響を与えた。-134-
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