あったことの証左となる。その発想とは一つには死後世界観を支える倫理基準としての孝行の奨励であり,もう一つは転生する世界としての六道観である。次に構成面での増補の傾向にはどのようなものがみられるだろうか。『地蔵菩薩発心因縁十王経』にみられる構成は,人間の死後,死天山の道行きから説き起こし,十王の裁きを順次記述し,最後には迷妄を解くために釈迦が説法して終わるというものだった。これに対し,『十王讃歎紗』では十王を順次めぐる間の地理的な情報がかなり増補され,十王に関する記述を終えた後で,五道転輪王に地獄の構成および等活地獄と無間地獄に関する詳しい解説をさせている。このように『十王讃歎紗』では『地蔵菩薩発心因縁十王経』にみられた釈迦による説法という枠組みは既に取り払われ,構成の主眼が死後の道行きを疑似体験させる方向に向かっていることが確認できる。そしてこの道行きに地獄を加えたこと,しかも等活地獄と無間地獄という八大地獄の第1と第8を詳しく描写し,地獄道を下って行く趣を加えたことは,六道十王図の碁本構造との深いかかわりを示している。『十王讃嘆修善紗』と『十王讃歎修善紗図絵』ではこの地獄に関する描写の後に,さらに阿弥陀の来迎に関する描写を増補する。この増補部分では,まず来迎の根拠である阿弥陀の四十八大願が示され,次いでその大願によって堕地獄から一転して極楽へ迎えられることになった人物の説話,念仏行者への阿弥陀の来迎と浄土の様子が連想形式によって並べられる。これらの記述は基本的には相互に独立した関係にあるが,地獄の描写以降を通読するなら,五道転輪王の裁判を終え,地獄を下って行く亡者がいたが,阿弥陀が大顧を発し,亡者を地獄から救済し,阿弥陀聖衆の来迎によって,浄土へ迎え入れられた,という一連のストーリーとして読者がこれを誤読してしまう可能性は十分にある。しかもテクストの作者自身,読者にそうした錯覚を期待していた可能性が強い。というのも例えば『十王讃嘆修善紗』阿弥陀来迎(極楽の情景)のくだりで,極楽における生活のすばらしさに感嘆した行者が,かつて閻魔王庁で苦を受けていた頃の自分を回想する記述があるが,彼が回想したような事実はこのテクストには記されていない。これは明らかに本米それぞれ独立して描写されたこのテクストの末尾の部分を,全体を通して一連の過程として錯覚させようとする,テクスト作者のアクロバティックな作為を示している。十王思想にあっては十王による裁判は亡3-3 テクストにみられる構成の展開-6-
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