鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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れているが,灰釉をほどこした緑色をおびる陶器類である。粉青とは器形が違い,はっきりと白磁の器形を意識した作風のものが多い。慶尚北道安東郡新陽里窯では,灰釉をほどこし,非常に粗い胎土の製品がみられる。器種は,Dとおなじく鉢・皿・釜という単純な構成である。釉薬は,高台裏まで施されず,目は胎土目である。また,全羅南道順川市西里九上里窯の製品は,やはり胎士が非常に粗く,灰釉を全面に施すなど,この系統の窯に属するものと思われる。甕器窯については,現在まで日本に発掘例が紹介されたことは全くなかった。しかし,今回の調査で偶然にも,慶尚北道清道尊池里甕器窯の資料を実見することができた。この窯の製品は,甕甕の蓋,甑瓶といった陶器製の貯蔵器を中心としているが,廃棄された窯内部から,刷毛粉青も出土しており,この窯の発掘担当者は,皿・鉢も一緒に焼成した窯としているが,極端に量が少ない。さらに,1485年に刊行された『経国大典』でも,沙器匠(陶磁器の鉢,皿を作るエ人)と,甕器匠が明確に区分されており,白磁窯で甕器が同時に焼成された報告もないことから,おそらくは甕器専門の窯であったと思われる。(2) 窯構造の分類が全国的に作られた。これらを焼いた窯は,自然の傾斜面を利用し,窯室を区分しない単室式の構造であった。1470年頃には本格的な白磁生産が官窯の成立によって起こり,窯の内部をいくつかの部屋に区切る連室式窯が築かれた。以上のA■D'の窯構造も,製品と同じように分類される。A,B, Cの窯は,総長が約27■34mと長く,巨大な連室式窯である。これに対し,D,D'の窯の長さは,総長が約17■18mと短い。D規模の窯の多富洞窯は単室式窯であるが,新陽里窯は連室式窯である。さらに17世紀の地方窯である後谷里窯は16mと小さいが,連室式窯であり,以後,単室式の窯というのは甕器窯にしか見られない。つまり,Dの窯では,単室式窯から連室式窯への過渡期段階にあったと言える。こうした過渡期現象のなかで,床面に段をもうけようとする傾向が慶尚北道多富洞窯などに見られ,昨今,さらに段を明確につけた窯の発掘例もあるが,報告書未刊のため,ここでは割愛する。以上の分析によって,16世紀の陶磁産業は,中央官窯と,それとエ人の往米によって密接な関わりを見せる地方の大規模な白磁窯,さらにはそれを補完するような形で・E 15世紀の朝鮮王朝では,粉青といわれる高麗象嵌青磁の伝統を根強く残した陶磁器-141-

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