鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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るものと思われる。以上のことから,飯洞甕窯,皿屋窯は,D',Eの窯と何らかの関連をもつものと思われる。皿や碗には,まった<共通点が見いだせないが,おそらく朝鮮系としては甕器匠しか,この窯に関与していないのではないかと思われる。事実,前述のように16世紀の朝鮮王朝では,甕器を作るエ人と,皿・碗を作るエ人が明確に区分されており,実際の窯址をみても,甕と皿・碗を同時に製造した窯は存在しない。この窯から出土する皿や碗は,帆柱窯と類似しており,おそらくは地元の必要性に応じて焼成されたものであろう。また,飯洞甕下窯の構造は,床面がはっきりと段をなし,幅が広く,現在まで発表されている韓国側の窯の資料とは異なるが,D'系列の窯の変化と呼応するものか,あるいは別系列の技術か,今後の韓国側の発掘資料の増加を今すこし待つ必要があろう。.皿に共通点の見いだせる窯ー山瀬窯本窯は薬灰釉を用い,帆柱窯との関連が指摘されてきた。しかし,製品は全く異なる。ことに外反し,内側に円刻をもうける皿は,内底円刻をもつ朝鮮陶磁と酷似している〔図5〕。また,白磁皿ではなく,安東新陽里窯出土品のような灰釉をほどこす製品と,土味,釉のかけ具合,底作りが酷似している。おそらくこの窯は帆柱窯系列の陶匠と,D'系列の陶匠が関連している窯と思われる。このようにして見ると,初期の唐津陶製作には,さまざまな系列のエ人が関与したものと思われる。朝鮮系に限定して言えば,甕器工人と,DあるいはD'タイプに属する慶尚道・全羅道地方の陶工ではないかと思われる。唐津の地に入った朝鮮王朝の匠の一系列は,甕器の技術をもった集団であり,帆柱窯を築いたような他系列の集団とともに,小型の碗.皿,大型の鉢など,朝鮮陶磁には見られない地元の必要に応じた製品を作ったのではないかと思われる。また,灰釉・長石釉の組み合わせや,胎土の粗さなどは,半島にも通じる要素であり,山瀬窯の皿の器形は,まぎれもない朝鮮系に属し,地方の沙器工人の集団も移転してきたものと見られる。D,D'タイプの窯の所在地は,全羅道・慶尚道であるが,これらの地域は先の研究史で挙げられたどのルートよりも地理的に北九州地方と近接している。また,日本人が朝鮮王朝の都である漢城に上るルーツが慶尚道に決められていたなど,地理的・歴史的な条件とも矛盾しないと思われる。帆柱窯で見られた鉄絵製品は,全羅南道の鉄絵粉青とも共通する要素があり,さらに資料が増加することが望まれる。最後に,窯構造は,韓国で発見さ-144-

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