れているものと大きく異なり,実際に他の系列を求める説もある。しかし,D'タイプの窯では床面に段状構造をもつなど変容過程にあり,製品もD,D'タイプの窯と密接な関連を見せることから,朝鮮系の可能性も十分に残している。四,結論器のみが退潮傾向を見せる。それは金属器の普及を背景としており,16世紀の陶磁器は,進上・貢納用の高級品か,あるいは金属器に手がとどかない層の粗質品としてしか,需要層をもちえなかった。ことに南海岸の地方窯において,陶磁器の質そのものか粗悪になるという現象を引き起こした。これらの地方では,釉薬の組み合わせは,白磁,青磁(灰釉系列),刷毛,粉粧となり,器種には鉢,皿,蓋が主体で,甕器である有蓋甕の組み合わせが伴うこととなった。こうした朝鮮社会のなかでの陶磁器の変容は,草創期の唐津陶に影響をおよぼし,胎土の粗さや釉薬,鉄絵装飾,甕類に影響を与えたと思われる。報告者の見解では,これらの技術をもたらしたエ人は,現北朝鮮会寧系のエ人ではなく,慶尚道・全羅道で非常に粗質な製品を製造していた沙器匠,甕匠たちであると思われ,甕匠の集団は飯洞甕窯に,沙器匠の集団は山瀬窯に移転したと思われる。慶尚道・全羅道のエ人であるとすれば,地理的・歴史的に見てもまった<矛盾しないルートと思われる。唐津陶が,鑑賞陶器として評価を高く受ける由縁は,前述したように,土味と釉薬のおりなす{宅味,鉄絵文様の奔放さであった。また,堅牢な作りの甕は,近年までさまざまな用途に用いられてきた。こうした,唐津陶が人々に広く需要されることとなった礎が,豊臣秀吉の侵略戦争以前に渡来してきた朝鮮系の陶工たちによって築かれたことは,とかく戦後の強制的な磁器製造技術収奪がクローズ・アップされることが多い傾向にあって,重要な意義をもちえるであろう。16世紀,朝鮮王朝では,他の産業や美術が大きく進展をみせるなかで,ひとり陶磁-145-
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