―-150-⑫ 小林清親の洋風表現について研究者:太田記念美術館学芸主幹加藤陽介光線画の源泉デビュー作とは言えないまでも,画業をスタートした明治9年に清親はすでに彼自身の代表作を発表している。「光線画」と称された一連の新東京名所風景画は,版元を松木平吉から福田熊次郎と変えながらも,明治14年までに95種を陸続と発表している。新しく生まれ変わった東京の姿を,淡い水彩画風の色調で,光線画の名のごとく,光を十分に意識して描いた風景画で,当時氾濫していたアニリン染料を用いた赤絵とは異なり,斬新で洋風の香りが漂うものとして受け入れられたのであろう。ところで,こうした水彩画,また広く洋風表現を清親はどのように学習したのであろうか。清親の写生帖8冊は古くからその存在が知られているものである。現存するものは明治12年と目されるものが最も古く,西洋式のスケッチブックに画材は輸入品か日本製か特定はできないものの,水彩画をすでにわがものにしていることが見て取れる。日本の水彩画の歴史を紐解くとき,チャールズ・ワーグマンの名前がまず筆頭に挙げられるのは大正初年頃より定着しており(注1)'明治初年に習画期をもつ清親もワーグマンに学んだと考えられるのが通常であろう。清親が西洋式の画法をワーグマンに学んだという話は昭和初年頃よりの諸研究書に見られる。しかし,これを裏付ける資料はいまだ現れていない。例えば,清親の五女,小林蜀津はワーグマンとは言われているほどの関係はなかった(注2)としている。また,事実ワーグマンより西洋画を学んだ弟子たちの記録からも清親の名を見つけることはできなかった。清蜆がワーグマンに就いたと説くほとんどは,版元松木平吉が原胤昭の仲介で明治8年頃,横浜にいたワーグマンのもとに清親を通わせたと唱えている。しかし,松木平吉が明治9年1月,清親のデビュー作として板行した2点〔図1〕は伝統的な浮世絵の技法で処理された風景画で,学習の成果に満を持しての発表とは言えないものである。ワーグマンとの接触の資料がない現在,断定的なことは言えないが,いずれにせよ,清親の洋風表現のかなりの部分を独学が占めていると考えてよいであろう。では,彼はどのような媒体を参考にしていたのであろう。近代の水彩画史を解説し,清親に関する論考もある織田一麿は「若し当時現今の如く色摺石版が自由であれば,
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