鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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こうした欧米の版画類をどこから入手したか,日本で銅版画印刷を始めたオットマン・スモーリックや清親版画の輸出商バアルンス商会などの名が挙げあられようが,これに関しては今後の課題としたい。「開化之東京両国橋之図」をめぐって一肉筆画の洋風表現一清親の肉筆画に「開化之東京両国橋之図」(太田記念美術館蔵)〔図14〕と題された作品がある。夕闇迫る隅田川に,両国橋か巨大な影をみせている。橋上を行き交う人々もやはり影でしかなく,手に持つ提灯,橋に取付けられた街灯,背景の建物からこほ‘れる光だけが色をもつ幻想的な一幅である。光はゆらゆらと揺れる水面を照らしているが,これらは決して一色ではなく,青や橙,黄色など何色もの絵の具を重ねていることがわかる。本図は制作年は明治18年以前とも30年代(注10)ともいわれている。ところで,当時の両国橋はどのような様子だったのであろうか。両国橋は明治初年に大改築が行われている。これは明治5年の出版となる歌川国鶴の「東京両国之図」〔図15〕,に見えるが,その後短い間に焼け落ちたり,流されたりしておりその都度改修が行われている。明治8年の改築の折,橋幅が大きくなり,親柱は石造,袖柱の間はレンガ造となっている〔図16〕。ちなみに両国橋が鉄橋として現在の位置に架けられたのは明治37年のことである。清親も明治8年改築後の姿は早速同9年発行の「東京五大橋之一両国真景」〔図1〕にとどめている。さて,「開化之東京両国橋之図」を見るとこれらの写真や作品に見られる欄干の形状などからいって,この両国橋は明治8年改築以前のものと考えられる。一方,「開化之東京両国橋之図」で目を引く街灯は,その形状からは石油燈か瓦斯燈か判断はつかない。ただし,石油燈は幕末よりいくつかの場所に設置されていたが,明治期の両国橋上には設置されていなかったようである。また,瓦斯燈は,明治9年に両国橋付近まで瓦斯管が延びていたが,橋上に設置されるのはだいぶ後のようである。つまり,橋は明治8年以前のもの,街灯は明治9年以降のものとなる。では,この図はいつの両国橋をいつ描いたものなのであろうか。この図が「東京五大橋之一両国真景」や光線画でデビューした明治9年以前の作品とするのは通常考えられない。もちろん,景観年代は制作年代と必ずしも合致するものではなく,それよりも絵師の意識や意図するところが多分に表れるものである。そこで問題にしたいのは,肉筆画にタイトルなど入れたことのない清親がわぎわざ画中に「開化之東京両国-153-

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