おほふねはしら大船は楢を倒すよ,11)。その背景を考えてみよう。治30年代後半頃の有様を「近年旧態を一掃して,商家櫛比,殷賑の市街とはなりきに13)。ただし,杢太郎はそれ以前に,光線画以降の清親の風景版画を実見してはいるが,橋之図」〔図17〕と表題を明記している点である。つまり,街灯まで描きながらなぜ広重を思わせるような,江戸時代より続く古い形態の両国橋を“開化之東京両国橋”としているのかである。明治9年以降の石やレンガを使った近代的な,晴れがましい両国橋が“開化之”であったはずなのに。“開化之”はどこでねじまがってしまったのであろう。つまり,ここで清親の描きたかったものは,“ノスタルジックな”開化の東京両国橋なのではなかったかと考えるのである。明治の初年の両国橋にはまだ江戸の風情が残っていた。その頃にはまだないが,街灯は明治の開化のシンボルである。明治時代の文明開化ムードが沈静化し江戸回帰の意識の中で生まれた作品と考えたい(注明治22年創刊で大正5年まで続いた報道画報誌『風俗画報』は両国広小路界隈の明…」と伝えているが,「明治五,六年迄は此処,観物・芝居・辻講釈或は納涼・花火と昼夜の遊興絶間なかりしなり…」としてその繁栄ぶりを懐古している。明治初年の古き良き時代を懐かしむこうした記事は両国界隈にかかわらず随所に見られる。こうした明治30年代後半よりの江戸懐古は若き芸術家たちの活動に顕著にみられる。当時は印象派など様々な絵画の流派や,印象派の詩や演劇などが欧米から流れ込むようになり,若い芸術家たちの間に都市情調という感覚が芽生え始めていた。こうした感性は東京の中に古い江戸の魅力を見出すという動きに移っていく。西洋文化に触れた末,江戸芸術に傾注した永井荷風,ヨーロッパ人の目をとおして過去の江戸を省みた詩人木下杢太郎,そして彼が主催したパンの会の同人たちがその中心的な芸術家であった。ことに木下杢太郎は大正年間に清親に関する論考を3点ものしており(注12),清親の東京名所図を愛し,再評価したことで知られている。杢太郎が清親の版画を実際に手にしたのは明治45年から大正元年の頃で,大正2年に清親を訪ねているという(注「つまらないもの」と明治43年2月発表の随筆に記している(注14)。この当時,光線画は杢太郎のような若い世代にはすっかり忘れ去られてしまっていたことを物語っている。一方,同年7月に発表した『両国」(注15)と題された詩は以下のような風景が広がる。両国の橋の下へかかりや-154-
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