「Whistlerno We no Kokoro wo」(ホイッスラーの絵の心を)というローマ字に英ッスラーの橋上の人物は輪郭をぼやかした油絵独特の手法で描かれるのに対し,清親のそれはくっきりとしたシルエットが描かれているにもかかわらず,一人一人のポーズは清親らしからず,極めて曖昧に処理されている。両者とも小船を操る船頭がみえる。紬先の向きは手前,奥と,逆であり,櫂,水竿と操り方は違う。注目されるのは,清親の方の小舟の紬先が隅田川を行き来していた舟とは異なり,ゴンドラのように反り返っている点で,本図を異国風景と錯覚させるに効果十分である。また,欄干の形ゃ,橋桁が3本ほどの柱で1組となり,また水面に近い部分で段差が付き,太くなっているところなどもよく似通っている。ホイッスラーは一時期でも印象派の洗礼を受けた画家であり,この絵も浮世絵の影響を多分に受けていることが指摘されている。こうした点から,ホイッスラー画と清親画の類似は同一の浮世絵より触発され,東西の地で偶然に類似した作品が生み出されたとする意見もある(注19)。確かに,清親が何らかの形でホイッスラー画を見たとの資料が発見されない現在,一つの考え方とは言えるが,両者の類似性から偶然とするにはあまりにも決着が早すぎるのではないだろうか(注20)。そこで,周りの状況から双方の関連に迫ってみることとしよう。「ノクターン…」は殊に,構図上,広重の影響が色濃いことは,彼の存命中からいわれていることである。これをいち早く唱えたのが,詩人であり,英米文学者の野口米次郎である。野口は英固滞在中の明治35■6年に,広重の影響を示唆した論考をロンドンのアカデミー誌上で発表しており,また,この作品に一編の詩を題しているという(注21)。そして,一連のノクターンシリーズなどホイッスラーの絵に詩を題しているもう一人の日本人が,木下杢太郎である(注22)。杢太郎は明治42年2月『方寸』に語を混ぜた詩を発表している(注23)。明治41年8月発刊の『方寸』に掲載された杢太郎の随筆「浅草観捐音」に「ウイスラーといふ書家は海の圃に題するに二色の名を以てしたさうだ。」としている。おそらくノクターンシリーズの「Blueand Gold Southampton water]などを指しているのであろう。この杢太郎の随筆からは,41年当時,彼がホイッスラーの絵を見ていないのはもちろんのこと,“ウイスラー”の名も馴染みの浅い画家といった様子が窺える(注24)。しかし,明治42年2月発行の『昴』に掲載された杢太郎の評論「地下一尺録」では「如何にしてウヰスラアの哲学が彼の「アランジマン」「ノクチルヌ」「シンフォ-156-
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