鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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ひろほりわり「廣い溝渠は,近くの方は土のやうに緑く,遠き方は銀のやうに白く光つて居た。かげ陰影と光のわがこころ。まださんせきノクチュルヌ金と青との愁夜曲,あおうしニイ」を生んだか…」とホイッスラー論を展開している。こうした著述や前述の詩を見る限り,杢太郎たちは明治41■2年の1年間にかなりの情報を収集し,写真等で絵を見た形跡がうかがえる。こうした若く,意欲的な芸術家たちが見聞を深めている頃こそが,ホイッスラー画の認知された時期であろうし,また彼らの活動からホイッスラー画がより広められていったものと思われる。前述した「Whistlerno We no Kokoro wo」もそうであるが,明治42年12月発刊の『昴』第11号に掲載した短編小説「六月の夜」にはこんな一節がある。其宝を,ヰッスラアの籍にみるやうな,ま黒い,然し霊工の目でみれば紫灰とも灰緑とも名付くべき色調の橋のかげがよこぎつて居るのである。(略)ヰッスラア式の橋の上を黒い人影が斑らに通り交はすそれが橋の向ふの端に近づくと,遥か後方に在る白壁の學校の窓から漏れる緑金色の燈光に照らし出されて,後ろに落日を受けた山脊の松の木のやうに劃然と形を現出する。」ホイッスラーの絵に関して詩作している詩人は杢太郎の他にもう一人いる。『方寸』や『昴』,パンの会で杢太郎と同人であった北原白秋である。白秋は明治43年5月に「金と青との」と題する小曲を創作している(注25)。春と夏との三’藍藁,わかい東京に江戸の唄,前記した2作品はホイッスラーのノクターンと江戸の情調を残す開化の東京をだぶらせて描いている。光と影の表現を使って描いた清親の「開化之東京両国橋之図」は,まさにこの2作品と同じイメージを絵画という手法で表していることが容易に理解できるであろう。白秋の詩は「開化之東京両国橋之図」に添えられた詩といってもある意味で間違いとはいえない。ただし,彼らの文学の動向から直接影響されて,「開化之東京両国僑之図」を描いたとは現在のところ断言はできない。しかし,「開化之東京両国橋之図」は明治30年代末から40年代にかけてこうした気運の中で生まれたと考えてよいであろう(注26)。江戸の浮世絵が,印象派へ,音楽と相侯ったホイッスラーの絵画へ,と変化を遂げ,最後の浮世絵師と呼ばれた清親,そして耽美派詩人の杢太郎らの東京に帰ってくる。そうした二つのうねりが,互いに認識せずともからみ合う状況-157-

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