鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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(10) 太田記念美術館で昭和54年に開催された『小林清親展』の際に発行された冊子では明治10年代の作品としている。また,昭和6年に開催された清親十七回忌追善記念遺作展では明治18年頃までの作品としている。一方,平成7年6月11日の毎日新聞日曜版「二枚の絵」で伊藤めぐみ氏は,明治30年代(1900年頃)の作としている。(11) 清親の光線画をして新しい時代の中に江戸の名残りがあり,郷愁を感じさせるという解説がしばしばなされる。これも同時代評がないためである。しかし,清親の光線画を見ると,どれもリアルタイムの景観が描かれており,必ずといってよいほど新しい風俗・事物が画中にちりばめられている。現在(明治9■14年)の新東京の風景を独自の新しい技法で描いていくことに清親の本命があったわけで,江戸への郷愁といったイメージを作り上げているのは明治30年代後半以降のことである。明治に出版された版画に江戸より続く風景が描かれているために我々も取り違えがちだが,清親自身はそう意図していなかったことは認識すべきことである。(12) 「小林清親東京名所図会」『芸術』大正2年,「故小林清親翁の事」『中央芸術』(13)小林紆津「清親考」『最後の浮世絵師小林清親』昭和52年蝸牛杜(14)「屋上庭園卓の一角欄」『屋上庭園』第2号明治43年2月(16) 野田宇太郎『日本耽美派文学の誕生』昭和50年河出書房(17) 前掲「故小林清親翁の事」(18) この類似性についてはかねてから言われており,グラスゴー大学ハンタリアン美術館のマーティン・ホプキンソン氏よりホイッスラー研究の口頭発表において指摘したとの報告を得た。また,前掲の毎日新聞日曜版「二枚の絵」において永田生慈氏がこの点に触れているのが最初の活字における指摘となる。(19) 前掲,永田生慈「二枚の絵」毎日新聞日曜版されたとき,報道関係者を含め,かなりの注目を集めている。また,1886年にオ2-2 大正5年,「小林清親の版画」字水書房の案内文大正14年(15) 『三田文学』明治43年7月号~O) 「ノクターン:青と金オールド・バターシー・ブリッジ」は1875年に初めて展示『Currier& Ives Printmakers to the American People』DOUBLEDAY,DORAN & CO. -159-

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