⑬ 1-4世紀の楼蘭王国の美術と西方の関係研究者:カリフォルニア大学バークレー校大学院中西由美子楼蘭王国はタリム盆地に栄えた古代オアシス都市国家の一つで,現在では中国新橿ウイグル自治区の東端に位置している。紀元前2世紀に張賽が漢の武帝によって西域に遣わされてから東西貿易が盛んに行われるようになり,タクラマカン砂漠の南北に点在していたオアシス都市を結んで二本の幹線路,即ち,天山南路と西域南道が頻繁に利用された。古代では楼蘭はこの二つの貿易路の分岐点にあたり,交易や軍事の点からも重要な位置を占めていたため,様々な民族の興亡の地となった。楼蘭と言う名が初めて中国史書に登場するのは紀元前176年のことで,匈奴王がタリム盆地の楼閲を含むオアシス都市を征服したというものである。しかしその後,漢も西域に勢力を伸ばし始め,匈奴との勢力争いの結果,紀元前77年漢が楼蘭の実際の政権を奪うことになり,その名も郡善と変えられた(注1)。紀元1世紀から4世紀までは特に繁栄をきわめ,最盛期には,東はロプノールの北に位置する楼蘭遺跡から,西はチェルチン,ェンデレ,ニヤ遺跡までを含んでいたことがこれらの遺跡から発見された3世紀から4世紀のカロシュティー文書から判明している(注2)。考古学的調査は今世紀初めのヘディン,スタイン,日本の大谷探検隊の橘瑞超らを初め,後年には西北科学考査隊,近年には新橿考古学工作隊が行っている。最近では日中共同のニヤ遺跡の発掘調査,仏中共同のケリヤの調査も行われ,更に文化の解明が行われつつある状況にある。美術的な研究では今世紀初頭のスタイン,アンドリュウス,1950-70年代のブッサーリ,ローランド,熊谷などが主である(注3)。中でもスタインの先駆的な研究は,その後の研究の基盤となってきた。スタインは西洋から遠くはなれたタリム盆地の果てで西方的要素が色濃く残る美術作品を発見したことに大いに驚き,それらを古典美術やローマ領オリエント,初期キリスト教美術からの影響として論じた(注4)。そしてミーランの壁画にカロシュティー文字で書かれた“titasaesa ghali hastakrica 領オリエントから来た画家であると結論づけた(注5)。ガンダーラ美術をローマ式仏教美術として定義したローランドはイランやインド美術要素を指摘しながらも,善闘善における西方的要素や様式をローマやローマ領オリエントからの影聾としてとらえた。[bhamma] ka(ティタの作3000バンマカをうけた)”の銘から,このティタがローマ166-
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