鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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注(2) カロシュティー文書には5人の王(Pepiya,Taj aka, Amghoka, Mahiri, Vasumana)が登場し,その絶対年代は議論されてきた。ブラフは絶対年代AD236-321を提唱し,榎はAD256-341■3という説を提唱した。長澤はこれに対して年third-century Shanshan and the history of Buddhism", Bulletin of the School of Oriental and African Studies 28, pp. 582-612. K. Enoki, "The location of the capital of Lou-lan and the date of Kharosthi inscriptions", Memoirs たことも,当時このような要素が広まった一因を担っているかもしれない。結論このように織物,建築装飾,壁画から楼蘭王国の美術に現われる西方的要素を概観して見ると,直接的なギリシャ=ローマやローマ領オリエントの美術からの影響はあまり見つからないようである。一見すると西方的な作品でも地方的要素を内包している点,古典的なモチーフが非古典的手法で表現されている点,モチーフ元来の意味を失っている点などからもそのことがうかがえる。楼蘭王国の美術はむしろ,中央アジア美術,特にガンダーラ美術やクシャン朝時代の美術などと関連があることかこの研究でも明らかになった。この文化的繋がりをクシャンの楼蘭王国における政治的支配によるものとする見方もあるが(注43),直接クシャンがこの地方を統治したという文書や考古学的証拠(注44)がない現状では,その政治勢力の存在を認めるのは難しい。むしろ美術様式や文様は貿易で行き交う商人や伝道の旅をする仏教僧または移民などによって伝達されたと考えるのが妥当ではあるまいか。また,楼蘭王国の美術はガンダーラ美術と強い繋がりがある一方,バクトリア地方に見られる独特な表現やササン朝美術に現われるジェスチャーの存在などにより,ガンダーラ以外の要素も含まれ複雑な様相を示している事も判明した。今後も楼蘭王国の美術を単にガンダーラ美術からだけでなく,より広い地域の美術から研究を続けていきたい。(1) この後中国の文献ではこの名前で登場する。この論文では王国名を楼蘭王国,口プノールのそばにあった都市名を楼蘭と表記する。代を少し早め,AD203-288■90を説いている。J.Brough, "Comments on the -173-

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