の使用,その中で使用される王の称号とクシャン王の称号との類似から,クシャン朝が善闘善に政治的勢力を拡大したものであるとした。(J.Brough, 1965, pp. シャン朝の移民団に滅ぼされ,この移民団を中核とする善闘善第二王朝が「クシャン朝の管轄下に」成立し,230年頃のササン朝によるクシャン朝の征服によって第二王朝の支配者のもとに独立した,と結論づけた。(長澤和俊『楼蘭王国』東京:第三文明杜,1976,97頁)これと関連して,ホータン付近から出土の所謂シノ=カロシュティー銭の存在があるか,これらはおそらく紀元1世紀から2世紀のものと思われ,その当時からカロシュティーが西域南道で広まっていたことを示している様に思われる。シノ=カロシュティー銭の年代は研究者によって大きく幅がある。榎は紀元前2世紀を提昭し,クリブは1-2世紀,ゼイマルは3世紀以降としている。K.Enoki, "The so-called Sino-Kharosthi coins" East and West, と見られる銅貨が楼蘭から1個発見されたのみである。小谷仲男『ガンダーラ美術とクシャン王朝』京都,1996,49-62頁。(38) J. Marshall, The Buddhist A rt of Gandhara. Oxford, 1960, Fig. 4 7. (39) L. Vanden Berghe, Reliefs rupestres de !'Iran ancien. Gent, 1988, Pl. 17. (40) W. Hinz, Altiranische Funde und Forschungen. Berlin, 1969, Pl. 57. (41) 前掲書Pl.113. 5, 1991, pp. 45-58. (43) カロシュティー文書を研究したブラフは郡善におけるカンダリ=プラクリット語582-612.)また,長澤も紀元前77年に始まった郡善第一王朝は2世紀の後半にク1965, pp. 231-76. J. Cribb, 1984 & 1985. E. Zeymal, "Sino-Kcharosh-(44) ムケルジーは直接支配はなかったとする。B.N. Mukherjee, "Kharoshthi docu-(42) C. Bromberg, "An Iranian gesture in Miran," Bulletin of the Asia Institute tiiskie Moneti," Strany I Narody Vostoka, 1971, pp. 109-20. ments of Shan-shan and the Kushana Empire," Acta Antiqua Academiae Scientiarum Hungaricae, 24, 1976, p. 93考古学的にはヴィマ=カドフィセス-177-
元のページ ../index.html#186