派の政治諷刺を得意とし,ルイ・フィリップの圧政に鋭い諷刺の矢を放ち続けて来た。しかし1835年9月の諷刺画に対する出版検閲法の強化により『カリカチュール』が終刊すると,政治諷刺の筆を折らざるをえなくなった。以後は『シャリヴァリ』を舞台に社会風俗の諷刺画を描くようになる。ドーミエが女性を諷刺の対象とするようになったのはこの時以後である。標的に選ばれたのは女性の文筆家であり,女性の権利を要求する社会改革者たちであった。「青鞘派」(1844年,40図),「離婚権主義者たち」は辛辣に彼女たちを攻撃している(注6)。そもそも1830年代に女性の文筆家(青鞘派)が群れを成して出現した背景には,七月革命以後の自由な風潮のなかで伸長したサン=シモン主義者やフーリエ主義者たちの主張する杜会的不平等の是正のなかに,労働者階級の権利とともに女性の権利という思想も含まれていたことがある。七月王政期に急増した出版ジャーナリズムは彼女たちに発表の場を与えたし,女性たち自身で自分たちの新聞を創刊することもあった。『未米の女性』はサン=シモン主義に傾倒した20歳と22歳の労働者階級の女性マリー=レーヌ・ガンドールとデジレ・ヴェレが1832年に創刊した女性だけが執筆する新聞で,出版費用は彼女たちの繕い物や刺繍のエ貨で支払われたという(注7)。その一方,もっと一般的な商業的出版物に小説や寸評を連載して人気を呼んだ女性作家,ジョルジュ・サンドやデルフィーヌ・ゲイらは当然プルジョワ階級に属している。1835年以降,政府に向けていた矛先を転じて『シャリヴァリ』が攻撃したのは,こうしたブルジョワの女性作家たちであった。『シャリヴァリ』の男性ジャーナリスト,フィリポンが彼女たちを批判した理由には,女性作家を男性作家の発表の場を奪う纂奪者とみなしたことがある。彼女たちは文学と政治という男の領域に進出する境界侵犯者として激しく拒絶されたのである。『シャリヴァリ』が最初に攻撃した女性は,『ガゼット・デ・ファム』(1836-1838)を創刊したマリー=マドレーヌ・プートレ=デ=モーシャンである(注8)。同紙創刊号による発刊の意図は,女性の政治教育の場となり,市民としての女性の権利を獲得しようとするものであった。しかしながらフィリポンはブルジョアのモーシャン夫人が『未来の女性』紙を手本にして,労働者のガンドルフとヴェレの主張を横取りしたとして非難している(注9)。続いて1837年5月テアトル・フランセで女権拡張論者を椰楡したテオドール・ミュ(1848年,6図),「女社会主義者」(1849年,10図)の一連のシリーズで,ドーミエ-184-
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