ではなく,政治という男だけに相応しい領域に徒党を組んで割り込もうとする危険な存在である。ここで標的にされているのは,最初の女性日刊新聞『女性の声』(1848年3月20日〜6月20日)を編集したウージェニー・ニボワイエやジャンヌ・ドロワンであり,彼女たちが主宰して労働者階級の女性たちを教育しようとした夕刻の集会「女性クラブ」であった(注12)。二月革命後の束の間の共和政治のなかで,サン=シモン主義やフーリエ主義に育まれて男性と同等の女性の権利を主張する彼女たちは,財産相続権,選挙権,離婚権など,禁治産者以外の市民に与えられる権利を女性にも与えるように要求したが,ドーミエの戯画が取り上げるのは最後の離婚権のみである。ドーミエおよび『シャリヴァリ』の男性ジャーナリストたちにとって女が離婚権を主張して家庭を破壊するのは許しがたい暴挙に映ったのであろうし,離婚=性的放縦というサン=シモン派への連想が働いたのでもあろう(注13)。「離婚権主義者たち」に描かれる女たちは,もはや青鞘派のような貧弱な体をしてはおらず,たくましい腕を突き上げて熱弁を振るい〔図6〕,集会に出かけては酒杯を高く掲げる。丸々と太ったエネルギッシュな女たちの伸ばした腕が画面を斜めに寸断し,巨大な胸が揺れる。ドーミエは動きのある生き生きした画面で,女性たちの暴力性を強調する。事実,1848年6月7日女性クラブ第9回集会は離婚制度を議題としたために男性の野次馬の妨害に会い,警察の手で解散させられた。こうして女性クラブは閉鎖される。同じ6月23日府軍が血で圧殺する。共和政府はどうしようもなく反動化し,再びブルジョワの利害によって革命の成果は横取りされてしまった。革命に幻滅した共和派ジャーナリズムはどういうわけか理不尽にも女性社会主義者に失敗の根源を求めた。二月革命にともに裏切られた男性の社会主義者が女性の運動家に憎しみを向けたのである。弱者がもう一段下の弱者を痛めつけるというこの不毛の構図を導く背景としては,当時の指導的社会主義者プルードンの言を引けば充分だろう。「われわれは男の乳母と同じく,女の立法府議員など理解できない。女は家庭を育み,男は外で活躍するものだからだ」(注14)。ドーミエの3つの女性シリーズは,当時の男性全般の保守的な性意識をきわめて鮮明に浮かび上がらせている。逆にまたその反フェミニズムの意識はドーミエの諷刺画によってわかりやすく共和派の男性の間に浸透させられ,女性社会主義者の運動に対(1849年)に描かれる女たちはもはや乏しい文学的才能を捻り出そうとする愚かな女■26日,国立作業場廃止に抗議して蜂起した労働者たちを,カヴェニャック率いる政-186-
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