鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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⑮ 日本画家郷原古統(1887-1965)の在台絵画活動研究者:広島大学杜会科学研究科比較芸術学博士後期課程近代における「台湾日本画]の様相という今後の研究テーマの前段階として,この小論は古統が台湾在住期間(1917-1936)において,昭和二年より九年に亙って台湾美術展覧会(以下,台展と略称)東洋画部審査委員の務めを通し,如何に台湾画壇で日本画の受容と関わっていたか,を中心に考察する。1.第一回台展開催までの郷原古統郷原古統は明治二0年八月八日,父堀江柳市と母はまの次男として長野県東筑摩郡筑摩村の三オに生まれ,本名は堀江藤一郎という。堀江家は幕末藩医の家で,藩主から三オに土地を拝領して百姓をするようになった。古統は幼時から母方の伯父保三郎の養子となり,東筑摩郡広丘村の堅石にある郷原家を継いだ。幼時から画オが現れた古統は明治三九年松本中学校を卒業後,絵画の勉強をするため上京した。美術学校の受験に備え,白馬会葵楠研究所に通ってデッサンの勉強をし,同時に丹青会で日本画を学んでいた。一年半の勉強を経て,明治四0年九月に首席で東京美術学校の日本画科に入学し,のちに新しく設立された師範科に転じた。明治四三年東京美術学校を卒業後は,京都の女子師範学校に赴任した。一年はどの図画教諭生活を経て,古統は休職して香港で材木の貿易を経営する伯父の琴次郎を訪ね,しばらく香港や南中国の写生旅行をしていた。この旅を通じて東洋に対する古統の関心や理解が一層深められたように思われる。この点は大正三年に古統が中国古代に画題を求めた,『海棠・牡丹』〔図1〕と大正博覧会に入選した『蓬温』との制作を通じて窺える。大正六年,愛媛県今治中学校で図画教諭を務めていた古統のもとに,東京美術学校よりー通の手紙が届いた。その内容は台湾総督府が文部省に依頼した図画教諭の招聘に関する用件であった。南中国や香港での生活に対する懐かしさと,台湾には画題になる所があるだろうという期待に駆り立てられて,古統は台湾への赴任を決意した。やがて「台湾総督府へ出向ヲ命ス」という大正六年五月ニニ日付けの任命文を手に,念願の台湾行きを実現した。五月二九日前後台湾に着いた古統の赴任先は,大正四年に新しく創立された台中中学校であった。台中中学校は当時では珍しく台・日共学制度を実施する学校で,同六摩瑾暖-191-

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