鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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年ー0月二二日に来台した北白川成久宮は二四日にここを訪れた。一月後には台中庁は「台湾本島空前の催し」と言われた教育衛生展覧会を開催し,その主会場が台中中学校の本館であった。台中中学校で行われたこの二大行事に学校のー教員として参加することにより,古統は来台して間もなく台湾での人脈を広げることができた。やがて大正八年に至り,古統は台湾全島の「素人画展覧会」の開催企画に加わり,開会発起者の一員として尾崎秀真や台北庁長の加福豊次,台湾日々新報社の應取田一郎などと共に名を連ねた。このようにして台湾画壇で初めて名を上げた古統は,翌九年に台中倶楽部で二十点の水彩画展覧会を開催した。注目すべきなのは,日本より送られてきた石川欽一郎の十四点の日本画が同じ会場で同時に展示されていたことである。のちの昭和二年に第一回台展を共に創設した古統と石川氏との初めての接点は,この展覧会にあったのである。この大正九年の水彩展が開催された時に古統は既に台中中学校の仕事を辞めていた。同年の夏,古統は東京美術学校の同窓だった斎藤延年を台湾に迎え,七月ー0日からー一日にかけて台中旧知事の官邸で二人の連合展を行った。閉会後,彼ら二人は写生旅行をするため,中国へ赴いた。この旅を経て台湾に戻ってきた古統は,大正一0年に秋田生まれの石橋はると結婚し,大正一一年より図画教諭として台北第二中学校と台北第三女子高等学校で同時に教鞭を執った。更にこの年には,東京美術学校の同窓で当時台北第一中学校の図画教諭を務めていた塩月桃甫と共に,二月ー一日からーニ日にかけて台北の博物館で合同展を開催した。古統と塩月氏の交友関係はその後も続き,大正一五年七月三0日に二人は台湾東海岸の写生旅行に出掛け,そして昭和二年の台展開設の実現に向けて,同志として共に奔走した。大正ーニ年四月裕仁皇太子か来台した際に,台北第三女子高等学校の参観が行われ,古統が『新高山之図』と『紅頭嶼之図』を献上した(注1)。こうして台湾画壇で重要な地位を占めるに至った古統は活発化を呈した台湾画壇の機運を察し,大正一五年夏頃,塩月氏,石川氏などの台湾在住画家と共に台湾における常設美術展の開催計画を考案した。民間レベルで提案されたこの企画はのち官展として第一回台展の開催に繋がっていった(注2)。昭和二年ー0月四日に第一回台展の役員発表は行われ,翌日に審査委員の公表がされた。西洋画部では石川欽一郎と塩月桃甫が招聘されたのに対し,東洋画部では古統と木下静涯が選ばれた。彼ら四人は第一回台展の幹事をも兼任していた。-192-

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