3.古統と台湾人日本画家らの手によって台湾画壇における南画再評価が展開する可能性は高いはずであった。ところが,現実はそれと反する現象を呈した。この点に関しては台展東洋画部の入選結果を介して台湾人画家が何を読み取ったかということが重要な鍵となり,またその答えが台湾における日本画の成立可否と大きく関わるのである。第一回台展東洋画部の入選結果によって示された写実主義の必要性を台湾人画家はどう読み取っていただろうか。第一回,二回の台展落選を体験した呂鐵州と祭雪渓を例にして検討してみたい。呂鐵州は昭和三年に日本に渡り,京都市立絵画専門学校に入学した。のちに日本画の『梅』によって第三回台展に初入選となり,昭和六年帰台後に台湾日本画界を担う旗手として活躍した。察雪渓は日本画の技法を独自で研究し,第三回台展に『秋の園山』が初入選した。しかし,彼は台展以外の場で伝統的文人画の制作をし続け,台展向けの日本画制作と両立させた。一方で,第一回台展に「松堅飛泉』によって入選した郭雪湖は,古統の『南薫綽約』に魅了され,それ以降日本画の制作を試みるようになった。その成果は第二回台展で上がり,入選した『園山付近』か特選を受賞した。彼はのちに第三回台展会場で王少涛の紹介を通じて,古統と面識を持つようになり,以来古統に私淑するようになった。禁雪渓や呂鐵)小I,郭雪湖などの三人は,台展開催前には多かれ少なかれ伝統的文人画の技法を身に付けていた。しかし彼らが台展開催後に日本画制作へ転向したことは,第一回,二回台展の入選結果と無関係ではない。彼らがそこから読み取ったものは,伝統的文人画に対する否定と,台湾画壇における写実的近代日本画の時代性である。勿論,このような認識と台展東洋画部の審査委員達が伝えようとしたメッセージとの間には隔たりがあった。しかし,奈雪渓らの日本画への転向,また,転向後の台展への入選や受賞は,もう一つの意味合いを生み出した。つまり,上記の台湾人画家が台展入選結果を通じて読み取った意味合いが祭雪渓らの試みと互いに絡み合いながら,相乗効果を見せるに至ったのである。しかも,結果としては台湾人画家達はH本画が時代を代表する新しい様式と認識し,好んでそれを受け入れ,積極的な学習意欲を見せた。勿論この点に関しては,ローカルカラーの追求という台展のスローガンに直面していた台湾人画家達にとって,粉本主義の伝統的文人画の表現は視覚的に満足を与えるものでなくなったことも関わっている。-195-
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