鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
205/590

4.結語こうして台湾人による日本画の制作が台湾画壇で派生するに至ったが,台展東洋画部の台湾人日本画家の間ではとりわけ陳進,林玉山,郭雪湖と呂鐵州が中心的な存在であった。中でも陳進は台北第三女子高等学校時代に図画教諭の古統によって画オが発見され,大正一四年卒業後に古統の支持を得て東京女子美術学校師範科に入学することが実現できた。台展の連続入選を経て大いに実力がついた彼女は,第七回台展より古統や静涯と肩を並べて東洋画部の審査委員を務めるようになり,昭和九年には『合奏』によって日本第十五回帝展に初入選した。画家陳進にとって古統が啓蒙的な重要存在であったのに対し,郭雪湖と古統の関係は時に師弟を越え,同志または父子のような親密さを見せていた。この点はとりわけ絵画研究団体「六硯会」,「栴檀社」の活動を通じて窺えた。昭和九年郭雪湖ら台湾人日本画家や洋画家,書家と美術評論家などによって結成された「六硯会」は古統を顧問として招聘していたのに対し,昭和五年古統が資金を調達して,台展東洋画部の画家を集めて設立した「栴檀社」には,郭雪湖が古統より事務的なことを任されていた。更に昭和ー0年郭雪湖と林阿琴の結婚に際し古統が仲人を務めていた。ここで見られた個人的な付き合いは戦後の現在でも郷原家と郭家の間になお続けられているのである。郭雪湖のはかに,古統が指導した台北第三女子高等学校出身の謝宝治や周紅網,邸金蓮黄早々などの台湾人日本画家の活躍も見られた。台展における彼女らの活躍は一時的な現象であったが,彼女らの作品に共通する緻密で洗練された写実表現は,平凡な塗抹家と批判された当時の台展東洋画部の画家達にとって正に必要とされる部分であった。この点は古統が彼女らの指導に際し,終始写生のことだけ強調していたことと深く関わるのである(注6)。また,古統という発音に因んで古統のことを「父さん」と呼んでいた,彼女ら台北第三女子高等学校出身の台湾人日本画家達は,郭雪湖の提唱によって昭和三七年古統の門前に長寿祝いの石碑を立て,碑文に古統に対する感謝の意を綴っていた。昭和二年より九年間官設の台展東洋画部審査委員の務めを通し,古統は日本という中央の視点に基づいた植民地台湾の近代美術を形成する,という課題を課されていた。その中,桂月や蕉琴の台展に寄せた南画再評価の動きは結果的に大いなる成果を見せることができなかったが,しかしその一方,古統の審査を通じて初期から東洋画部で-196-

元のページ  ../index.html#205

このブックを見る