鹿島美術研究 年報第14号別冊(1997)
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⑯ 青騎士年鑑と同時代の思想研究者:国立西洋美術館研究員田中正之カンディンスキー研究の基本的かつ古典的モノグラフである『ワシリー・カンディンスキー,生涯と作品』の中で,著者ヴィル・グローマンは,油彩《インプロヴィゼイション26,オール》とその水彩による習作,さらに《音》のための木版画について次のように論じている。カンディンスキーは,これらの作品を通して,描写の対象を「自由な形態」へと翻訳しており,形態は線といったグラフィックな要素へと還元されて,自由な連想を許すものになっているのだ,と。そして,カンディンスキーの作品の中で具体的な対象がより抽象的なイメージ(「自由な形態J)へと変化させられていく展開の様相を記述しつつ,このような営みがなされた理由を,もっぱらこの時期のカンディンスキーが「精神の現象のみを真実であると認識していた」からだと断じている。しかしながら,これに付け加えて,カンディンスキーはまた,自分の作品を完全に抽象的なイメージのみによるものにしてしまうことに対して非常に慎重であったことも指摘するのだが,その時グローマンは,ドイツの現象学の哲学者エドムント・フッサールに言及しつつ次のように書く。「彼の感性は,(およそ同時期に執筆をしていた)フッサールが言うところの『何かについての意識』へと彼を向かわせたが,ただしそれは非常にゆっくりとであった。」(注1)ここでグローマンは,カンディンスキーの言う「精神の現象」が何なのかをはっきりと解釈している。つまり,カンディンスキーは,フッサールが「何かについての意識」と呼んだ「精神の現象」を捉えようとしていたのだ,とグローマンは言っているのである。フッサールの「何かについての意識」は,通常は「志向性」と日本語に訳され,フッサール現象学の基本的な概念となっている。現象学とは「意識」についての学問だといってもよいもので,当初フッサールは,師であるブレンターノの思想を受け継ぎ「意識とは常に何ものかについての意識である」と定義されうる意識の特性を「志向性」と呼んでいた。そして,「何ものかについての」つまり「何かを志向している」時の,その志向されたもの,意識が向かっているものが「対象」と呼ばれる。だが,「現象学的還元」という操作を思いつくとともに,フッサールは,この「志向性」という-199-

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